朝窓ガラスを見たら、鳩が派手にフンをしている。網戸ごしに直径5㎝くらいの大きな白いフンがへばりついている。あーあ、ひどいなあ。
我が家の近くには鳩が多く庭にもよく遊びに来る。ヒヨドリと違ってうるさくないし、歩く姿がかわいいから結構好きなんだけど、体が大きいだけにフン害にいつも閉口している。
一日フンを眺めているのは嫌なので、ガラスクリーナーとふきんですぐにガラス磨きを始めた。ガラス磨きは始めるまでは億劫だけど、きれいになっていくのを見るのは楽しい。
掃除をはじめるきっかけを作ってくれて鳩さんありがとう、とか思う自分に酔いながら、溜まっていた汚れもついでに拭き上げて悦にひたっていた。私って仕事できるんじゃない?
ところが週末、鳩のフン事件は新たな局面を迎えた。ウッドデッキでバーベキューの支度をしていた夫がデッキの鳩のフンを拭いているのだ。その場所は、数日前に私が掃除した窓ガラスの真下部分。
実は窓ガラスを拭いている時デッキも汚れていることは知っていた。でも掃除すること自体思いつかなかったのである。
窓ガラスは目に入った途端、嫌な気分になって「拭かなきゃ」という反応が起こるのに、デッキのフンは目に入っても私の心に何の反応も起こさない。主婦失格?
「気がきく人間、細かい事に目が配れる人間」失格?
やっぱり「使えない人間」?
実家の店で働いていた時、いつも「使えない人間」感を噛みしめていた。商品に埃がついていても、店の前の道路にゴミが落ちていても、ポテチが売れてなくなっていて品出しをしなきゃならないのにも気付かない。
やるべきことは知っているのに、目に入っても行動のスイッチボタンが押されない。
姉たちは商品の埃にも、店頭のゴミにも、ポテチにもすぐ気が付く「使える人間」だった。「使える人間」じゃなきゃダメだと思っていた私は「使える人間」のふりをして姉たちの目をごまかそうとしていた。
「使える人間」のふりをしていると、自分の感覚が薄れていく。現実の世界に薄いベールがかかったみたいに、うれしいこととか、嫌なこととか、きれいなものとか、美味しいものとかがベールの分だけちょっと遠くにあるような感じ。
自分じゃない何かになるためには、自分の感覚がリアルじゃなれない。嫌なこともなかったことにしなきゃ。「私を大事にして」って心の声をきかなかったことにしなきゃ。
苦しくて苦しくて、むしろ余計に「使えない人間」になっていったな。
デッキを拭いている夫は楽しそう。私が床を拭くことなんて全然期待していないみたい。
もしかして
あの時もあの時もあの時も、誰も私に「使える人間」を期待してなかったのかも。苦しみを背負ってた私はなんだったんだろう。
鳩のフンを片づけたデッキには、キャンバス地のチェアとウッドテーブルが広げられている。バーベキューの時は夫が肉を焼いてくれるから楽ちんだ。
でも気の利いたサイドメニューがあるといいかなと思ってしまう。夫や娘たちに、料理上手で「使えるお母さん」だって思ってもらいたい。
今日もついがんばっちゃうけど、昔ほど辛くはない。
梅雨の合間のいいお天気の土曜日のこと。夫と憧れの野外ピザに挑戦しようという事になった。野外ピザといっても庭にピザ窯があるわけではない。ピザ窯を作りたいわけでもない。でも外でピザってなんかカッコいい。
じゃあどうやって作る?。今ある七輪ふうのバーベキューコンロの上にステンレスのボウルかぶせてみたら?金属は熱伝導がいいから熱が逃げちゃうよ。じゃあ植木鉢のせれば?いいねそれやってみよう。
結局炭を入れるところも植木鉢にして、その上に焼き網をのせ、大きい植木鉢をかぶせて窯にすることになった。

早速いそいそと買い出しに。食材の調達が終わった私たちは100円ショップ「ダイソー」に向かった。焼き網を買うためだ。ちょうどいいサイズの網が見つかりホクホク顔でレジへ。
お会計を済ませている間、所在無げな夫は入口付近に陳列されていたパッケージ用品を眺めていた。
車に戻りながら夫が「英字新聞ってなんでかっこよく見えるんだろうね?」英字新聞をプリントしたパッケージ用品がたくさん並んでいたのだ。
夫「日本語の新聞でプレゼントを包む気になる?」
私「全然ならない」夫「うーんかっこよくないね」
夫「ハングル文字とか、アラビア文字とかでもかっこよく見えるのかなあ?」
想像してみた。
うーん、やっぱりかっこよくない。英語だからかっこいいのだ。
考えてみると不思議だ。英字新聞ならかっこいいのに、どうして日本語やハングル語やアラビア語の新聞でプレゼントを包むのはかっこ悪いんだろう。
若い頃モロッコを旅行したことがある。アラビアンナイトの世界の迷宮のようなカスバや、大道芸人やスリでいっぱいの市場。混沌とした世界を支配しているのはアラビア人。アラビア語をガンガンにがなり立てられ、英語もほぼ通じない。
宿の人、商店の人、客引きの人くらいしか接しないけど、なんでこんなにぐいぐいくるんだ?日本人とは距離の取り方が全然違う。なんかアラビア人って疲れるな。ああもう疲れちゃった。
モロッコはスペインと近いのは知っていた。フェリーで1時間くらい。行く予定はなかったけど、モロッコを逃げ出したくなって行くことにした。
ところが、スペインに渡った私はモロッコにいた時とは全く違うタイプのダメージを受けてしまう。
初めてのヨーロッパにワクワクしながら港から出て歩きはじめた私。石畳、道路標識、街灯、店や民家や教会などのあらゆる建造物が信じられないほど美しい。こんな素敵なのが普通?日本にあったら拝観料とれると思うよ?
すれ違う学生、子供、会社員らしい男女、初老の夫婦、全ての人がとにかく美しい。堀の深い顔立ち、吸い込まれそうな色の瞳。ふわふわにカールされた明るい色の髪。
今までいたモロッコとものすごくものすごく違う。この人たちに比べて私ってなんて汚いんだろう。汚れた靴、安物のリュック、日本人特有ののっぺりとした顔に化粧さえしていない。こんな美しい街の美しい人に囲まれたら恥ずかしくて歩くこともできない。
モロッコでは騙されたり、ぼられたり、散々な目にあっても、こんなダメージはうけていない。
ああ、ヨーロッパってすごい。私はヨーロッパのスゴさに打ちのめされてしまった。南端のスペインでさえこんななんだから、パリはどのくらいすごいんだろう?パリに打ちのめされないためにはどれくらい修行を積めばイインデスカ?
ニッポンのここがスゴイ!ってTVで盛んにやってる。日本は欧米に負けてない、日本の良さは世界に誇れるってみんながんばってる。でもやっぱりプレゼントを包むのは英字新聞なんだよね。
あれから25年。私はいまだにスペイン以外のヨーロッパの地を踏んでいない。
ピザは旨かった。

買い物に行こうと車ででかけた時のこと。梅雨の合間の五月晴れ。街路樹の新緑が目に眩しい。私は赤信号で止まった交差点でのんびり辺りを眺めていた。
その時、ちょっとくたびれた茶色のシャツと黒っぽいズボンをはいたおじさんが、交差点脇の電信柱の根元をじっと見つめているのが目に入った。
何を熱心に見てるのかな?
目を凝らして電信柱の根元を見る。すると何かが太陽の光を反射してキラキラしている。??もしかしてオシッコ?
なんとおじさんは車がたくさん行き来する交差点で立ちしょんをしていたのだ。
そりゃあ私も子供の時は外でしたこともあった。友達と一緒に飛ばして混ぜたり、飛距離の競争とかしたものだ。
女の私でさえそうだったのだから、もっと手軽にできる男子はきっと私の10倍くらい外でしてたんじゃない?子供の時の立ちしょんは遊びの一つだった。
でも、大人になるとあんまりしなくなる。軽犯罪法違反というのもあるけど、「良識のある大人は立ちしょんはするべきでない」っていう空気になってくる。
それでも緊急事態というのは誰にでもある。そんな時でも普通の人は人目につかない所でこっそりやるんじゃない?
この交差点にも、車の人の目につかない場所はいくらでもある。ほらそこのアパートの裏とか、その大きな木の陰とか、路駐してるトラックの後ろとか。
だってみんなに見られてるんだよ。交差点に今集まっている少なくても10台の車の窓からみんなが見ていると思うよ。
おじさんすごいな。なんでこんな所でできるんだろう?おじさんは常識がないのかな?それとも常識に囚われない人なの?それとも常識が変わったの?
私は中学で剣道部に入っていた。剣道というのはものすごく蒸し暑いスポーツなのだ。厚手の綿の胴着を着て袴をはき、小手、面、胴までつけるのだから滝のように汗が出た。
でもその頃部活中に水を飲むのは厳禁だった。先生の目を盗んで飲んでいるのが見つかったりするとビンタが飛んだものだ。
今そんなことをしたら完全にアウトだろう。水分補給もビンタも。
だからもしかして立ちしょんもいいことになったのかなあ。私が知らないだけで。
でももし常識が変わってなくて、常識も知っていてそれでもやっているなら、おじさんになんかやられたって気がする。大胆不敵でそれでいてごく普通のことのようなさりげない立ちしょん。
このあふれる陽光の中で、誰の目もはばかることなく体の欲求に正直になることが、おじさんにとって国が決めた軽犯罪法を守ることよりも重要だったとしたら?
それを考えてるだけじゃなくて実行に移せる行動力、あの冴えないルックスからは想像できない熱いものを持っていたら?
「みんながみんな同じ考えじゃなくてもいいだろ?だから俺はこれで行く」タブーに挑戦してるんだ。かっこいいなあ。
友達とコンサートに出かけて演目が終わり、ああ楽しかったねと言いながらトイレに寄った。友達と感想を話し合いながら長い行列に並び順番を待っていると、先に並んだ友達が空いた個室に入っていった。
次に空いたのは友達の隣の個室。個室の壁は薄いから、隣の友人に音を聞かれそうで気が乗らない。でもその次が空くのを待つのは後ろに並んでいる人に悪いからそこへ入る。
私は排尿音を消す音姫を使わないのがカッコイイと思っている。誰もが立てる音なんだからありのままでいいじゃん。
でも隣に友達が座ってると思うとビビってしまう。私が出てきた時にさっきの派手な放尿音は私のものだったんだとバレてしまうからだ。自分の放尿音を隠さないなんて恥ずかしいと思わないのかしらと嫌われたらどうしよう。
だから音姫を押してしまう。シャラシャラシャラ♪
機械的な水の音を聞きながら、五月の陽光にオシッコを光らせていたおじさんを思い出す。
土曜日、息子の高校の文化祭に行った時のこと。
息子の高校では、例年PTAで焼きそばの模擬店を出してるらしい。友達がPTA役員になってて手伝いにきてと頼まれたのだ。
屋台の焼きそば買うことはよくあるけど、作るのは初めて。舞台裏はどうなってるのかな?軽くワクワクしながら現場に向かう。
でも開店2時間前の現場はそんな甘いものじゃなかった。分厚い巨大な鉄板が2枚並んだその後ろに、大量のキャベツが入った段ボールが積み重なっている。段ボールのタワーの間をすり抜けて調理場にたどり着く。いったいこのキャベツどのくらいあるんだろう?
気の遠くなりそうな量のキャベツを「洗って」「刻んで」「仕分けする」のが今日の私の仕事らしい。キャベツメンバーは5人。かなりビビっている隣の二人は、多分私同様初めてなんだな。あの落ち着いた雰囲気の婦人は経験者だね。
その隣は男性だけど戦力になんのかな?包丁も使えないんじゃ困るんだけど?あれ?この人見たことある。
その人は同じ行政区の人だった。うちの地区は秋祭りがあって、婦人部として手伝いに行ってる私は、山車を動かしている男性と祭りでよく一緒に飲んだりしている。その山車のメンバーさんだったのだ。こんなところで会うとは。
実はその人と素面で会うのは初めて。お酒って人見知りでも知らない人と仲良くなることができる魔法のクスリ。
普段は内気で話しかけられないんだけど、お酒を飲めば自意識過剰な私が影をひそめて、大胆に話すことができる。でも素面だと過剰な自意識が幅を利かせ始める。特に男性が相手だとひどい。
向こうもちらちらと私を見て気にしている様子。あああ何かすごく気まずい。私の方が年上だし、こっちから話しかけた方がいいんだろうな。でもなんて話しかけたらいいんだろう?
お酒を飲んでるハイな時と全然ちがう、人見知りでおどおどした会話しかできない私を知られたくないんだよ。でも話しかけなければ、お酒の力を借りないとコミュニケーションがとれない人間だと烙印を押されてしまう。ああどうすればいいんだろう。
そうこうしているうちに開店時間が来て、嵐のような忙しさがやってきて…。気が付いたら終了時間になっていて、例の男性はもういなくなっていました。
ああ、またやってしまった。あの人に烙印を押されてしまった。次に祭りで飲む時はまた微妙に気まずいんだろうな。
今朝見た朝ドラを思い出してしまう。高校生の時に一度だけ会ったことがある彼に、大学生になって偶然再会したヒロイン。再会のその瞬間に、彼をまっすぐに見据え「外で待ってて」と言い放つ。待っていた彼に「私のこと忘れていなかったのね」と直球ボール。
なんてカッコイイんだろう。全然おどおどしていない。彼女のようになりたいと思う。周りの人が自分に優しいと思いたいのだ。
何度も頭の中でストーリーを再現している。どうすれば彼女のように振舞えるのかヒントがあるに違いない。
でもふと思う。これはドラマだからな。もしかして彼女も現実の世界では、飲み会で仲良くなった彼と、次の日おどおど話していたらどうしよう。
日曜日の朝のこと。フライパンにオイルをたらし、薄切りベーコンをチリチリに焦がしてトーストもセット。いいにおいがしてきたぞ。さあ、朝ご飯にしようかな。
その時息子の野太い声が。「部活遅れそう、お母さん送ってくれない?」
えー?これから朝ご飯なのにー。トースト冷めちゃうじゃん、億劫だなあ。
でも息子にいい顔をみせたい私はそんな本音はおくびにも出さない。
「うーん、送ってあげたいけど、ねえ、その、今日は行政区の掃除があるんだよね。」もちろんウソだ。息子もうすうす感づいている。まずい。
そこへ夫が起きてきた。
「あ、お父さんに送ってもらう?」
息子はどっちでも別にいいのだ。
起きたばかりの寝ぼけ顔で「じゃ、行くか」と息子を送っていく夫。奴は億劫に思ってないな。
人間には、億劫センサーの鈍い人というのがいる。雑用をする時に億劫に感じない人の事だ。
例えば備品の交換。トイレの電気切れてるなと気づいたらその場で付け替えたり、サランラップがなくなったらその日のうちに買いに行くことができる。三色ボールペンで黒インクがなくなると、青と赤で書き続ける私には決してできない。
或いは整理。読み終わった新聞をそのつどきちんと積み上げて行ったり、たたんだ洗濯物を奥から順番に並べるとか。使い終わった食器を乱雑に食器棚に放り込んだあげく、月一で派手に割ってしまうような私と、いったいどこが違うんだろう?
或いは頼まれごと。電子辞書の電池がなくなったから単三電池とってくれない?と言われて電池を渡すだけじゃなく交換までしたり、掃除機かけてと頼まれると、椅子やソファの座面や足の裏、フロアマットをひっぺがして裏までかけたりするとか。
貴重な時間を奪われないよう、最小限の時間と労力でやってのけることに情熱を傾けている私は、頼んだこと以上のことをしてくる人に、うれしいとか、優しいとか思うより、恐れに近いものを感じる。
もしかして時間の流れが自分とは違うんじゃないか?とか、彼らの目は、目の前の雑事をきらきらした仕事に見せる機能を持ってるんじゃないかとか、もしかして世界の秘密を知ってるんじゃないかとか。
世の中は億劫センサーが敏感な人が多い。私のように何をするのも面倒に感じる人だ。そういう人に頼み事をする時はセンサーに引っかからないように慎重に言葉を選ばなければならない。センサーの鈍い人に慣れてしまうと敏感な人への対応力が鈍ってしまう。
何より自分のセンサーがどんどん鈍くなってきそう。
センサーが鈍くなったら雑用が嫌だなーと思わなくなっちゃう。そうすると色んな事が目に入ってきちゃう。
例えば掃除機のノズルのブラシについたほこりに気がついちゃって、それをとるのが楽しくなって夢中でノズル掃除をしちゃうとか。そしていつの間にか、貴重な時間をそれらに費やすようになっちゃったらどうしよう?
私は時間をブログを書いたりするクリエイティブな活動に使いたいんだよ。
でもセンサーの鈍い人の方がずっと楽しそうに見えるのはなぜ?
雑用を嬉々として楽しんでやってるあの人たちは、おもちゃを独り占めしないでみんなと仲良く遊んでる子供みたい。
クリエイティブな私は、おもちゃを誰にも渡さないで横目でうらやましそうに見ているだけなのだ。
こんにちは。とびらです。
「ねえ今日忙しい?」姉から来た一本の電話。すっごーく嫌な予感がしました。今日は姉が父を病院に連れていく予定の日。父は近年軽く認知入ってきたせいもあって癇癪がひどい。あー、お姉ちゃん、我慢の限界か?
話を聞くと10時半までに病院に行かなきゃならないのに、その前に市役所と針灸に行くという過密スケジュール。それに姉が遅れたといって癇癪だまを爆発させたらしい。
いいよいいよ、もう我慢しなくて。私が行ってくるよ。
迎えに行った父はものすっごーく怒っていた。脳みそが沸騰しそうに。目の玉がとびでそうに。82歳、まだこんなに怒れるんだ。長生きしそうだな。
父の言い分はこうだ。
「約束の時間に15分も遅れてきて、一言も謝らない。一言謝ればそれで済むのに謝らないなんて常識がなさすぎる。あんなのは社会的に許されないぞ。」
はあ、やっぱりそんなことでしたか。いや多分そんなことだろうとは思っていましたよ。はあーーーーー。
出発の30分前に電話が来て、慌てて支度して出かけてきた姉のことを一ミリも考えることができないんだね。想像力がゼロ、0、○○ーーーー。
はらわたが煮えくり返りそう。あーこれがわが父か。
人生が、家族を使ってちょいちょい私にチャレンジしてくるなあ。イヤーな出来事を何度も起こして、私をパワーアップさせようとしてるな。いいよ、受けて立つさ。負けないよ。
私「常識が通じない人っていっぱいいるよね。寛大なところみせて許してやればいいじゃん。」
父「ぐうう・・・。」
ふん、黙ったか。やったね。これで今日はもうおとなしくしてるな。
と思ったのもつかの間。
病院でも予約通りに診察が始まらないといって烈火のごとく怒りだし…。
人生のチャレンジ続くなあ、いったいゴールはどこ?
「嫌な出来事は自分の嫌いな部分を許すために起こっている。嫌な出来事は自分の心を投影しているだけだから。だからその気持ちをよく味わって、それにOKを出せばいい」
って聞いたっけ。あーやだやだ。父に言ってる場合じゃなかったのか。自分もうちょっと寛大になれやー、許してやれやー。許さないとこのステージクリアできないぞー。もう飽きた。そろそろ次行きたい。
ステージをクリアしたいから
今日許せないこと、今日イラっとしたこと、今日めんどくさいと思ったことを流さないでしっかり味わおうと思う。
色んな味を味わってるうちにきっと、美味しく感じる時がくるような気がする。大人になって苦みとか辛みとかが美味しくなったみたいにね。
あー、今日も味わうやついっぱいあるなー。
こんにちは。とびらです。
昨年50歳になったので同窓会のお知らせが盛んに届きます。
先日行った中学の同窓会でのことです。
会も中盤に差し掛かったころ、一番奥で楽しんでいた私の所に見覚えのない同級生がやってきました。
50代ともなるとお腹周りやフェイスラインがたるんでくるのが男女とも普通だと思うんですが、彼はスリムで若々しい。チェックの中折れ帽、ピタピタパンツに夏ニット、軽めのロングコートという地方10万都市では決して見ることのないいで立ち。
誰だっけ?思い出せないから悪いなあと思っていると、「ねえ、誰だっけ?」
あなたも思い出せなかったんですね。ああよかった。
話を聞くと、彼は今日来ているほとんどの人を思い出せないのだとか。それで順番に確認しているらしい。
わかったようなふりして話を合わせるより、初めからわからないことを前面に押し出す戦略家ぶり、風貌からして明らかにサラリーマンではなく、クリエイティブ系。臭さ全開勘違い自称アフィリエイターとしては見逃せない相手。
きっと自分のやりたい事やってる人なんですよね?もしかしてこんなところでメンターに出会っちゃったりして?
東京の広告代理店で仕事をしていたという彼。仕事へのプライドはまあ、持ってて当然ですよね。50歳ですから。
「俺さあ、自分の企画がCMになったり中吊り広告になったりするのが楽しくてさ、朝まで働くなんてよくあったけど忙しさなんて感じなかったね。今は地元帰ってきてデザイン事務所を開いているんだけど、このへんの人って頭にあるのは町おこしだけみたいだね。」
え?ちょいちょい芸能人の名前入れたエピソード交えてきたりして、ちょっと雲行きあやしいぞ。
「俺さあ、ある意味30年近くサラリーマンやれてるやつが一番スゴイと思うんだよね。組織の中で自分のやりたい事やれてるわけでしょ。」
それ、サラリーマンだらけのこの席で言っちゃうんだ。
「俺さあ、東京行って昔の事なんて考えられないくらい毎日忙しく必死で生きてきたんだよね。だからみんなの事覚えてないんだよ、ごめんね。」
あの、私たちもそんなに暇だったわけじゃないんですよ。
ちょっと期待しちゃっただけに、なんかすごく残念。なんでそんなに「俺って違うから」って言いたいの?一生懸命生きてきたのは君だけなの?誰かに褒めてもらいたいの?
だから結婚できないんだよ。
あ、彼独身だったんですよ。
私クリエイティブ系の仕事って憧れてたんですよ。才能のある人達が集まっていて、自分の好きなことを仕事にしているんだろうって。
なのになんだろう、何でこんなに「見て見て系」なんだろう?そういえば去年行った中学の同級会でも、音響関係の仕事している子がいて、もっと重度の「見て見てちゃん」だったな。
サラリーマンって一括りにできないように、クリエイティブ系って一括りにできないことはわかります。でも少なくてもサラリーマンはクリエイティブ系の人達に敬意は持っていると思う。
クリエイティブ系の人の多くは創造力の高い仕事をしていると思う。でも自慢しないでいられないあんたたちってどうなの?やりたい事やって満たされてる人って自慢しないぞ。
うーん、どうやら私のメンターにはなってもらえそうにない。
私の理想のメンターはやりたい事をやっていて、それが周りをすっごく楽しませる人だからな。どっかにいないかな。
こんにちは。とびらです。
ブログを始めてはや数か月。
他のブログで時短料理を書いてみたり、マクロビオティックのことを書いてみたり、こちらではアフィリエイトや、心の中のことを書いてみたりしてきました。
今読み返してみるとどれも
くっそつまんねえ
特に最近の投稿は
なんだよお前教祖かよ
って言いたくなるような押しつけがましさ。もう限界。
なんていうかさ、ブログって読み物じゃん。
楽しみたいから読むんだよね。
でもさ、よくあるのがこういうブログ。
あなた何もわからないでしょ、私の方法が正しいから試してみて。私こんなこと知ってるのすごいでしょ、だから私はこんなに幸せなんですよ。
あー、私のブログ完全にコレ。
なんでこんな風になっちゃったんだろ?
他人の幸せなんか全然おもしろくねえよ。
だいたいさ、「感謝すると幸せを感じるんです」とか「好きなことをやっている私は幸せなんです」とか言いたいだけでしょ。読む人の気持ち全然考えてない。
そもそも立ち位置がおかしいって。
あんたいったい何様なの?
いつもそう思ってたじゃーーーーーん( ;∀;)
だからもう変なとこに立つのをやめます。
もう自分が胡散臭すぎて耐えられません。
でも立ち位置がモンダイだ。
「臭さ全開勘違い自称アフィリエイター」という恥ずかしい自分を封印したいけど、隠しても多分染み出てきちゃうと思う。
だったらむしろ「臭さ全開勘違い自称アフィリエイター」の自分にツッコむという新たな立ち位置でやっていこうかと思います。
あー、なんかすっきりしたなあ。

こんにちは。
パートで家計を助けていた50歳の主婦が、もうパートを辞めたいから起業したい!と言ったら、周りの人に常識を知らない奇人扱いされ、間違いなく100%反対されるでしょう。
でもそれに耳を傾けるのはちょっと待って。新しいことを始めるのには、若い時よりかえっていいかもしれませんよ。
起業するのは今がチャンス
可能性が減っているから選びやすい
日本はいい国なので、なろうと思えばほとんどどんな職業にもつけます。勉強ができればその可能性がさらに広がるので、若いうちはみんな一生懸命勉強しますよね。
でもだんだん大人になるにつれて、何が好きで何が得意なのかわかってくるとやりたい仕事の可能性はどんどん狭められていきます。50歳にもなれば、置かれている状況、スキル、興味は様々ですから可能性はさらに絞られてきます。
だから若いころより選択肢が減り、かえって選びやすくなっているんです。
たくさんの選択肢があると選ぶのが嫌になっちゃいませんか?春物のカットソーが欲しくてショッピングモールに行っても、たくさん品物がありすぎて迷ってしまい結局一枚も買えない、なんてことありますよね。
やりたいことを探すのには、50歳の今の方が間違いなく有利なんです。
タイムリミットが迫っているから決断しやすい
50歳になると、健康診断で赤い項目が出てきたり、同世代の友人、知人が病気になるってことも出てきます。何やらだんだんとタイムリミットが近づいてる予感…。現実に残り時間は少ないんですよね。
明日病気になるかもしれないんだから、元気でいられる間にやりたい事ってなんだろう?と思えるのが50歳の強みです。20歳だったら時間が有限ってことに気付かないもの。
社会的な義務からの解放
学校を卒業して、会社に就職して、世の中の役に立つようスキルを磨き、妻になって家事をして、母となって子供を教育する。日本で暮らしていると、こんな風に親や社会に求められます。
「そんなの気にすることない、自分のやりたいことをやっていいんだよ」と言われても、私の場合は難しかったなあ。結婚や子育てをしなきゃって思い込んでたし、期待に背いてまで、やりたいことを貫けるほど自分に自信がなかったんです。
でもそんな私でも、今なら義務を果たしたような気がするんですよね。それに、その経験を通してやっと、今まで怖くてできなかったことに挑戦する勇気が出てきたというか、ブレーキがちょっと緩くなってきたというか(;´∀`)
日本で生活している以上、社会的な常識から逃れられません。女性に対する社会の期待に答えたという意味で、50歳主婦はいわば隠居のような存在といえるかもしれません。昔からご隠居さんは好きに余生を過ごしていいんでしたよねえ(´∀`*)ウフフ
まとめ
何の特技もない50歳の主婦が起業したいと言ったら大笑いされるのは間違いありません。でも
やりたいことを探しやすくなっていて
時間制限があって
自分の中のブレーキが緩んだ
今だからこそ、何かを始めるチャンスとも言えます。
周囲の声を聞いてやらないもよし、自分の心の声を聞いてやるもよし。人生は自分の思った通りになっていく!

こんにちは。とびらです。
誰かの役に立つ記事を書かなきゃ、アクセスは増えないっていいますよね。だから人の役に立つ記事を書こうとネタを探す、見つからない、更新できない、やる気がなくなる…。
やる気がなくなってやめちゃうくらいなら、自分の役に立つ記事を書いたらどうでしょう?自分が勉強したことや興味あることの備忘録としてでもいいし、自分の好奇心を満足させるために調べ上げた記事でもいいじゃない。
自分の役に立つ記事を書く=自分を喜ばせる
そもそもブログをはじめたばかりの頃はアクセスなんてほとんどないのに、誰かの役に立つ記事なんて書けるわけない。アフィリエイトについて書こうと思って始めたこのサイトだって、書きたいテーマはどんどん変わってきちゃったし。
結局、自分の好きなこと書くしかできないんです。だって好きじゃないこと書いても全然楽しくないんです。自分の役に立ちそうなテーマならいくらでも調べられるし時間を忘れて書けるんですよね。
ブログの超初心者ならアクセスアップは後回し
そりゃあ、アクセスを集めるための書きかたがあるでしょうよ。でもブログ自体初めての超初心者の場合、それ調べるのにかなりの時間を費やさなきゃなりません。

私の場合はじめは自分の書きたい事さえよくわかりませんでした。変に真面目だからどこかのサイトや、ライティングの本なんか読んでその通りに書かなきゃと思ったりして、さらにわからなくなっちゃいました。
思うに、私のような生真面目な初心者の場合、教科書的なものがない方がいい。ブログの作り方だけ教わったら、あとはしばらく人の目を意識しないで自分の楽しめることだけを書いた方がいいみたい。
自分が楽しめば楽しさは伝わる
私も今は自分の知りたい事、思いついたことを書きたいように書いています。誰の役に立っていなくても、自分の役に立っていればいい。そうすれば自分を喜ばせて、自分をご機嫌にさせてあげられます。
人はご機嫌でいる時、目に見えるものが50%増えるといいます。ご機嫌でいれば探し物も見つかるし、いいアイデアも浮かびます。何よりご機嫌でいられる環境に感謝したくなります。
楽しい気分で書くブログは、読んでいる人にその楽しさが伝わります。辛さの伝わるブログより楽しい気分になれるブログの方がまた訪問したくなりますよね。
「自分の役に立つこと」が「人の役に立つ」とうれしい
「誰の興味も引きそうにないな」と思うようなテーマでも、自分が好きならいいんです。自分が知りたい情報を集めて、自分が後で参考にするために書き残すのでもいいと思って書いています。集めた情報を比較、実験したりするのも楽しそう!
そんな大人の自由研究みたいなものが、きっと誰かの役に立つと思うんですよね。ブログを書くのが楽しくなって余裕が出てきたら、その時にまた改めてアクセスアップの勉強をしようと、ぐうたらな私は先延ばしにしているのでした。
まとめ
楽しく、楽に記事を書くのでなきゃ、初心者にはブログを続けるなんてとてもできません。記事を書くのが難しいな、私にはできないかもと思ったら、SEOなどの知識は一度全部わきに置いて、自分が楽しめる記事を書いてみてください。
あなたが楽しむことを世界は応援するようにできているので、楽しむことこそが成功の道なのです。