グーグルのbloggerが初心者に刺さる理由

目安時間:約 6分

私の住んでる町は世界遺産がある。富士山だ。最近、そこへ集まってくる外国人をターゲットに英語のブログを始めてみた。なんたって、地元のことはジモティが一番よく知っている。

 

使い始めたのはグーグルのblogger。今日は伝えたいのは、あまり知られていないbloggerが、初心者にいいぞっていうこと。

 

めんどくさいことみんなやってくれる

bloggerは無料ブログサービス。メリットは「広告が一切表示されない」「アフィリエイトOK」「一つのアカウントで100サイトまで作れる」などたくさんある。

 

その中でも初心者の私が一番いいぞと思うのは、グーグルのサービスを超簡単に利用できることだ。

 

グーグルサーチコンソール

ブログを始めたら、何はともあれ登録しておきたいのがグーグルの検索サービス。サーチコンソールは、読者さんがどんな経緯で、いつ、何人、私のブログに来てくれたのか教えてくれる無料サービスだ。

 

無料なのに、こんな弱小の一日3アクセスとかいう残念なブログにさえ、惜しみなく天才が開発した分析システムを開放してくださるって、さすが世界のグーグル。

 

全然使いこなせてないけど、いつかビックなブログに育った時に必要になるはず。だからあなたも登録しなくてはダメだ。

 

ところが、fc2ブログとワードプレスでブログを作ってきた初心者の私にとって、この登録作業は気持ち悪くなるほどめんどくさかった。

 

解説してくれるブログは鬼のようにあるんだけど、書いてあること自体がまるで暗号のよう。暗号を解読するために新たな解説ブログを捜すということを繰り返し、登録するのに何日もかかってしまう。

 

しかも新しいブログをスタートする時は、しばらく時間を空けてしまうので、すっかり忘れている…。

 

新しいブログを作るのはめんどくさい…。

 

というスパイラルに陥ってしまっていた。

 

そこへ、bloggerが颯爽と現れたのだ。

 

bloggerは、解説ブログが必要ないくらい簡単にサーチコンソールに登録できるのだ。

 

ダッシュボードの左側にある設定から検索設定に行き、Google Search Console

の横にある編集ボタンをクリック。

 

Google Search Consoleに飛ぶのでそこでURLを追加登録するだけだ!

 

時間にして3分もかからない。

 

グーグルアナリティクス

アナリティクスの方はひと手間多い。でもやはり超簡単だ。

 

まず最初にアナリティクスにログインして、アカウントに新しいブログを追加する。トラッキングIDというものを確認する。

グーグルのヘルプから引用

トラッキング ID を確認する方法は以下のとおりです。

  1. アナリティクス アカウントにログインします。
  2. [管理] をクリックします。
  3. [アカウント] 列のメニューからアカウントを選択します。
  4. [プロパティ] 列のメニューからプロパティを選択します。
  5. [プロパティ] で [トラッキング情報] > [トラッキング コード] をクリックします。トラッキング ID は、ページ上部に表示されます。

 

そしたらbloggerにログインして、ダッシュボードの左側にある設定からその他をくりっくする。そこの一番下にGoogle Analyticsのアナリティクスのウェブ プロパティ IDを入れるところがあるので、先ほど確認したトラッキングIDを入れるだけ。

 

アナリティクスの登録は私には超難しかった。ワードプレスもFC2ブログもトラッキングコードっていうのをHTMLタグの中に埋め込めないとだめで、それが難しすぎて何日もかかってしまった。

 

bloggerはその埋め込みをやらなくていい。なんて楽ちんなんだろう。初心者の救世主。

 

グーグルアドセンス

なんか登録も審査も難しそうなアドセンス広告。それもbloggerでは簡単に利用するための仕組みが初めから備わってる!

 

ただ、ある程度記事数がないと申請もできない模様。まだ3記事しか投稿していないので残念ながら今はお知らせできない。お知らせできる日が来るのをぼちぼちお待ちくだされ。

 

まとめ

日本ではあまりメジャーではないbloggerだけど、調べてみたらメリットが意外と多いので驚いた。英語ブログの選択肢として選んだbloggerだったけど、こんなに使い勝手がいいなら「もうfc2ブログは使わなくていいな」と思った私だった。

 

調べるのがめんどくさい、カスタマイズや設定が嫌い、細かいことは誰かに任せて記事だけ書いていたい…という私のようなだるーい初心者に、bloggerはうってつけのブログサービスではないだろうか。

 

 

好きな映画

目安時間:約 4分

女友達と話していた時のこと。

 

最近見た映画の話をしていたのだが、その流れから、今まで見た中で一番好きな映画は何かという話になった。「一番を決めるのって難しいよねー。」と言いながら、相手の出方を見る。

 

こういう時、好きな映画を言うのがすごく怖い。どんな映画が好きかで、その人が人生で何を大事にしているのかがわかってしまうような気がするからだ。

 

ハリウッド映画が好きだなんて言ったら、人生の機微が分からない人って思われるんじゃないか。表面に見えるものだけを大事にして、その奥にあるものを大事にしない人に思われるんじゃないかって。

 

もし相手が、「一番好きなのはニューヨークの恋人かなあ」とか言ったりしたらすごく気が楽になる。「レミゼも良かったなー」っていうのもいい。大好きなのはスターウォーズだと本当のことを言っても大丈夫だ。

 

でも友人はこう言った。「うーん、やっぱりアメリかなあ。次点がグランブルー。若いころはフランス映画しか観なかったから、アメリカの映画良く知らないんだよね。」

 

こんな場合は返答がとても難しい。彼女にハリウッドしか知らないエセ映画好きと思われないようにしなければならない。頭の中で今まで見た中で難解だった映画をあげてみる。「フランス映画=難解」という私の常識にあてはめて。

 

これはどうかな?

私「マグノリアはよかったな。あとインセプションも好き」

友人「トム・クルーズ、ディカプリオ、あんた相変わらずイケメンが好きだよねー。」

 

そうだ、難解なだけじゃだめなんだ、フランス映画だよフランス映画。

 

私「ニキータもよかったよね、あ、最強の二人も好き。」

友人「あれってあんまりフランス映画っぽさはないよねー。」

 

あー、難解さを忘れてた。でも「気狂いピエロ」や「山猫」は全然だめだ。魂を売り渡さないとおもしろいって言えない。

 

本当は一番好きなのはスターウォーズだ。フランス映画の対極にあるようなベタベタなハリウッド映画。勧善懲悪のわかりやすいストーリー、銀河が辺境という圧倒的なスケール感。でも友人に理解してもらえないだろうと思うと辛い。

 

その辛さを避けるために、まあまあ好きなフランス映画を並べる。でもスターウォーズを好きなほどの情熱はないから、あまり盛り上がらない。

 

スターウォーズが一番って言えばよかったかな?

 

でもそれだと、自分が全く普通だと告白することになる。世界中の誰もが好きなスターウォーズが一番好きなんて。フランス映画が好きな友人にそんなこと言ったら負けだ。

 

長い間、普通じゃない特別な何かに憧れている。この世界を普通とは違うフィルターで見ている人達に対する憧れ。それに比べて自分の感覚はあまりにも普通。

 

自分の中の定義としてスターウォーズは普通、フランス映画は普通じゃないというのがある。

 

だからスターウォーズが好きなのに、フランス映画が好きな友人が好きなのだ。そんな友人に認めてもらい、普通じゃない気分を味わいたいから、ちょい難のフランス映画を頭の中で高速サーチする。

 

でもだめだ、もう出てこない。もう負けだ。

 

本当のこと言うしかないか。第一位スターウォーズ、第二位風の谷のナウシカ、第三位釣りバカ日誌。こんな普通の私でもよかったら改めてつきあってください。

この辛さに名前を付けてください

目安時間:約 4分

夫と朝食をとっていたときのこと。

夫が食卓の椅子に座ろうとして、腰に手を当てて顔をしかめている。

 

「どうしたの?腰痛いの?」

「うん、なんか昨日から急に。」

「昨日なんかしたの?」

「思い当たることもないんだけど…。」

 

いつも腰痛がある人じゃないので、疲労かな、ぎっくり腰かな、もしかして内臓かな、と不安になる。

 

体の中のことってよくわからないから不安だ。痛みがあっても目には見えないからどこが痛いのかはっきりとはわからない。病院に行ったとしても、わからないからうまく言葉にできず、伝わらない。

 

それでも上手にくみ取ってくれるお医者さんに診てもらえたり、レントゲンをとったりして、病名が付くと安心する。

 

病気だとわかって安心するというのも変だけど、自分の痛みや気持ち悪さが、ちゃんとした病気で、名前もついているとわかると安心できる。

 

病気なら治療できるかもしれないし、治療できなくても痛みをわかってもらえる。

 

自分にしかわからないというのはとてつもなく不安だ。

 

新しいことを始める時とちょっと似ている。初めてのことってわからなさすぎて、どこがわからないかを言葉にすることもできない。だから聞くこともできない。

 

例えば初めて彼氏とデートした時。

 

年下でお金がなかった彼が、その日は奮発してお寿司屋さんに連れて行ってくれた。座ったのはカウンター席。私も若かったので緊張していた。

 

そんな初々しいカップルに店の大将は色々話しかけて盛り上げてくれた。気遣ってくれたんだと思う。でもどんどん機嫌が悪くなる彼。

 

何かがまずかったんだと思う。でもわからない。何が悪かったんだろう?彼に聞いても「怒ってないよ」と言う。怒った顔で。

 

経験を重ねた今なら、なけなしのお金をはたいてくれた彼とじゃなく、大将と盛り上がるなんて、絶対アウトだったとわかる。

 

あの時、そういうのに嫉妬っていう名前があることを知ってたら、ちゃんと対処できたのに。

 

今だってわからないことだらけだ。

ブログを始めたのはいいけど、教科書通りにやったら苦しくてたまらない。

 

世の中には教科書通りにやって上手くできる人が多いようだ。ブログアフィリエイト初めて一か月で月収50万円!とか、○○PV達成!とか。みんなすごいな。苦しくないのかな。

 

最近、この苦しみには「興味ないことをやっている」って名前がついていることを知った。ああだからこんなに苦しかったんだ。やっぱり名前がつくとすごく安心する。それだけで苦しさが消える。

 

「興味あること」に方向かえてみたけどやっぱりわかんないことばかり。こんなことばかりして何になるんだろう?と毎日が不安だ。でも苦しくない。生きてる感じがする。

 

空き地で、草や拾ってきた段ボールで秘密基地を作ってた子供時代に戻ったみたいな気がする。方向合ってるんじゃない?

 

きっと明日もわからないことで頭がぐちゃぐちゃになる。でもきっとそのうち名前が付くから大丈夫、だと思う。

ちゃんとする

目安時間:約 3分

家の近くのコインランドリーに行ったときのこと。

 

店の外にベンチがあって、そこに黒い毛布のような物体がある。え?何だろう?それがゆらっと揺れた。生きてる!動物?

 

その動物はゆっくりと立ち上がった。どうやら人間らしい。びくびくしながら、でもしっかり観察すると、ドレッド風の髪を腰までたらし、毛布のようなきれを身にまとったおじさんだった。

 

もしかして浮浪者?このベンチで寝ていたんだね。うわ怖いなあ。近づかないようにしよう。

 

昔は浮浪者っていっぱいいたなあ。物乞いのおじさんとか、ちょっと頭のネジのはずれた人とか。今はほとんどみないけど、みんなどこにいっちゃったんだろう?野良犬とかも前はいたけど、今はいたらいけないことになってるもんね。

 

昔はもっと耐性があったような気がする。浮浪者とかに。今は遭遇することがほとんどないから、恐怖が増してる気がする。物乞いとか野良犬なんて、今の子供たちは見たこともないんじゃないかな。

 

目にしたことがないものや、知らないものに人間は恐怖を感じるようにできてるらしい。いつも見慣れてるもの、身近に普通にあるものに囲まれていたい習性。だから異質なものを排除したくなる。

 

社会のルールにはみ出すもの、迷惑をかけるものは外の世界に出てこないようになっている。社会福祉施設とか病院とか保健所とかに隔離されてる。

 

ちゃんと生活できない老人は老人介護施設に、人とちゃんと関われない人は引きこもりに。

 

元気で健康でちゃんとした考えの人だけがいてもいい世界。なんかホラーみたいだ。

 

ちゃんと結婚して、ちゃんと子供育てして、ちゃんと働いて、ちゃんと人付き合いもして、ちゃんと親孝行しないといられない世界。

 

だから私はいつもびくびくしている。

 

今の話全然意味わからなかったんだけど、ちゃんと聞いてないかったからかな。

文化祭で残った焼きそば「誰よりもたくさんもらって帰りたい」をちゃんと隠せたかな。

ちゃんと身の程をわきまえているように見えるかな。

 

息子が高校でテニス部に入った時、先輩のお母さんに飲みに誘われた。あまり試合観戦に行かない私に彼女はこう言った。「息子が勝ったり負けたりするの、ちゃんと見てあげなよ。今しかないんだから。」

 

あー、そういう「ちゃんと」もあるんだ。いつになったらちゃんとできるんだろう?

 

行列のできるフルーツサンド

目安時間:約 4分

家の近所の八百屋さんでフルーツサンドが人気だ。元々果物を得意分野にした八百屋さんなのだが、最近フルーツサンドを売り出したという。聞いたところによるとインスタで人気に火が付いたとか。10時と2時の発売時間には行列ができているらしい。

 

人口10万人の小さな町で、ホントかな?と思ったがホントだった。その時間に隣の銀行で用事を済ませて出てきたら、店の外まで行列ができていた。

 

行列ができるほど人気と聞くと興味のなかった人まで買いにいったりするから不思議だ。人が人を呼んで、今ではそこのフルーツサンドは希少価値が非常に高く、誰かにあげたりしたらとてつもなく喜ばれるものになった。

 

これって八百屋さんのもともと売り物のフルーツを、形を変えて売っているだけなんだよね。果物をフルーツサンドにするって思いつくのがすごいぞ。望月商店。

 

世の中にはお客さんの目で、長年働いている自分の店を見ることができるという特殊技能を持った人々がいる。旅先で、もやしの根を取りながら店番をするお婆さんや、見たこともない大きな葉っぱの木を新鮮な目で眺めるみたいな感じで。

 

そんな特殊技能を持った人は、自分の中にあるものも、お客さんの目で見ることができるのかな。いいなあ。

 

自分とのつきあいが長くなってくると、自分の性格や振舞いに慣れすぎて、もはや自分が何を好きなのかさえよくわからなくなってくる。子供の時はもっとはっきりしていた。良いところもいっぱいあった。でも今は埋没してて全然見えない。

 

でもなぜか短所には慣れることがなく、むしろより多く見つけるように努力さえしてしまう。その結果、多すぎる欠点をかかえた自分なんかより、他人の方がずっといいものに見えるのだ。

 

近所に映画館も、ショッピングモールもコンビニもない田舎に住んでいる人は、大都会には何でもあると強い憧れを抱くだろう。映画、お芝居、ライブなどのエンターテイメント、流行のファッション、食の豊富さ。

 

なぜか満員電車とか、交通渋滞とか、高すぎる生活コストとかには目が行かない。そういう構造になっている。

 

ふとしたきっかけで、自分の店や自分自身の良さに気付くこともある。誰かに褒められたり認められたりして。でも普通は当たり前すぎてわからないものだ。

 

私も望月商店みたいになりたいよ。自分の良さを発掘したい。

 

それにはやっぱりフルーツだな。私にとってのフルーツってなんだろう?ぐるぐるぐるぐる考え込む。店の中の品物を一つ一つじっくり見て回るみたいに。

 

そして気付くのだ。萎びた野菜しかないことに。フルーツなんて初めからなかったんだ。ちっ、時間の無駄だったな。

 

萎びた野菜しかないから漬物でも作るか。あれ、でも漬物もいいね。

 

 

 

ありのままへの道

目安時間:約 3分

午前中の用事を済ませ、ほっと一息一人ランチを楽しんでいた時のこと。

 

手元のスマホがピヨピヨと鳴った。電話の着信音を鳥の鳴き声にしているので、電話がくると地味にうれしい。

 

電話は行きつけの美容院から。

「こんにちは。今日ご予約いただいていたんですが…」

え?予約今日だったっけ?完全に忘れていた私は泡を食ってしまう。

「あうあうあ、ごめんなさい、えーとえーと忘れちゃってたみたいで;@/.%"」

「今日はどうされます?お忙しいですか?」

忙しくはない。ブログを書く使命があるだけだ。でもうーん、ちょっと気が進まない。

「あー、えーと、うーん、また予約しますねー。」

 

なぜ気が進まないのか。それは最近白髪を染めることに疑問を感じるようになっちゃったから。

 

50を過ぎている私はもう10年白髪染めをしている。「白髪があると老けてみられるから」染めることにしたけど、最近悶々としている。

 

そもそも白髪が生えてくるのは歳を重ねていく上で自然なこと。染めるほうが不自然で違和感は感じていたのだ。

 

染めるのが当たり前みたいな空気に逆らえないことに無力感もある。年のせいか染毛剤にアレルギーが出て、染めるたびに痒くなるようになってきちゃったし。

 

そんなある日友人とランチに行くと

 

「私も白髪が増えてきちゃってさ、でもさ、このままでいくことに決めた。」

 

えええ、私がここ何年かずっともやもやしていることをそんなあっさり?

 

思えば彼女は自分にいるものといらないものをよく知ってる。子供も作らなかったし、近所づきあいもしない。

 

「若く見られること」もいらないんだ。ああ、どうしてこんなに潔いんだろう。かっこよさに胸を打たれる。

 

それを聞いてから、ますます「白髪を染める=ありのままの自分を否定」感が強くなってしまったのだ。

 

私も「自分は自分」って胸を張って生きたい。若く見られたいっていう煩悩を捨てたい、周りの目を気にしない人間になりたい。

 

いいないいないいな。あんな風になりたい。

 

ああでも、とふと思う。煩悩だらけの自分が自分だな。きれいに見られたいし、若く見られたい。欲が深いのだ。

 

やっぱり美容院予約しよう。「ありのままへの道」はまだ始まったばかりだ。

目にみえないもの。

目安時間:約 4分

「誕生会に誰が出られるか、まとめといてくれよ」

一か月後に誕生日を迎える父。今の一番の関心ごとは自分の誕生会だ。どこで開くか、いつ開くか。重要な問題だ。

 

父は老人介護施設にお世話になってる。洗濯も掃除も食事も入浴も手伝ってもらえる。時間がたっぷりあって退屈らしい。

 

ひどい癇癪持ちなので、施設の嫌われ者ベスト3に入っている。今まで世話してきた家族の苦労がわかってもらえてうれしい。

 

嫌われるのは癇癪のせいだけじゃない。考え方も独特なのだ。

 

例えばお風呂。自分の入りたい時間に、自分の思い通りの手伝いを望む。例えば食事。自分の食べたいものを、想像以上の良さで、食べたいだけ食べたい。例えばテレビ。自分の見たい番組を作らないテレビ会社を訴えたい。

 

周りの人の都合とか、どう思われるかとかもない。自分の考えがすべて。

 

そんな父を見ているうちに私はだんだん不安な気持ちになってくる。もしかして独特ってわけじゃない?これって、現代社会の罠なのかも。

 

なんていうか、ずっと昔は食料を調達することは大変だったからその手間に感謝できたかもしれない。でも今は何でもスーパーで買えるようになって、野菜や肉にかかってる手間なんて想像すらできなくなっちゃった。

 

お金さえあれば、ご飯を作っている人、お風呂に入れてくれる人、番組を作っている人の手間や心遣いを感じなくてもサービスを受け取れる。つまり、お金が手間や心遣いを見えなくしちゃってる。

 

作ってる人やサービスをしている人の心を受け取るにはある種の修行が必要な時代なのだ。

 

チョコレートを食べながら、カカオ豆を採っているガーナの少年や、小麦を栽培しているアメリカ農家のおじさん、コンテナに積み込むお兄ちゃん、工場のラインのおばさんの労力を感じるなんて、ものすごく難しそうだ。

 

修行を怠ると、

手間や心遣いを感じられないからよくわからない。

わからないから心遣いを他者にすることができない。

手間や心遣いを感じて欲しい他者に嫌われてしまう。

 

もう全然他人事じゃない。

 

そんな父だが誕生会はやりたい。周囲の老人が家族に祝ってもらっているというのをよく聞くから。心遣いは目に見えないが、誕生会は目に見える。修行していないから嫌われてることに気付いてない。だから祝ってもらう権利は当然ある。

 

となりの人が煮物をおすそ分けしてくれたら、すごくありがとうって思えるのにな。分業と貨幣で世の中はすごく便利になったけど、見えなくなったものもけっこうある。

 

使える人間、使えない人間

目安時間:約 4分

朝窓ガラスを見たら、鳩が派手にフンをしている。網戸ごしに直径5㎝くらいの大きな白いフンがへばりついている。あーあ、ひどいなあ。

 

我が家の近くには鳩が多く庭にもよく遊びに来る。ヒヨドリと違ってうるさくないし、歩く姿がかわいいから結構好きなんだけど、体が大きいだけにフン害にいつも閉口している。

 

一日フンを眺めているのは嫌なので、ガラスクリーナーとふきんですぐにガラス磨きを始めた。ガラス磨きは始めるまでは億劫だけど、きれいになっていくのを見るのは楽しい。

 

掃除をはじめるきっかけを作ってくれて鳩さんありがとう、とか思う自分に酔いながら、溜まっていた汚れもついでに拭き上げて悦にひたっていた。私って仕事できるんじゃない?

 

ところが週末、鳩のフン事件は新たな局面を迎えた。ウッドデッキでバーベキューの支度をしていた夫がデッキの鳩のフンを拭いているのだ。その場所は、数日前に私が掃除した窓ガラスの真下部分。

 

実は窓ガラスを拭いている時デッキも汚れていることは知っていた。でも掃除すること自体思いつかなかったのである。

 

窓ガラスは目に入った途端、嫌な気分になって「拭かなきゃ」という反応が起こるのに、デッキのフンは目に入っても私の心に何の反応も起こさない。主婦失格?

「気がきく人間、細かい事に目が配れる人間」失格?

 

やっぱり「使えない人間」?

 

実家の店で働いていた時、いつも「使えない人間」感を噛みしめていた。商品に埃がついていても、店の前の道路にゴミが落ちていても、ポテチが売れてなくなっていて品出しをしなきゃならないのにも気付かない。

 

やるべきことは知っているのに、目に入っても行動のスイッチボタンが押されない。

 

姉たちは商品の埃にも、店頭のゴミにも、ポテチにもすぐ気が付く「使える人間」だった。「使える人間」じゃなきゃダメだと思っていた私は「使える人間」のふりをして姉たちの目をごまかそうとしていた。

 

「使える人間」のふりをしていると、自分の感覚が薄れていく。現実の世界に薄いベールがかかったみたいに、うれしいこととか、嫌なこととか、きれいなものとか、美味しいものとかがベールの分だけちょっと遠くにあるような感じ。

 

自分じゃない何かになるためには、自分の感覚がリアルじゃなれない。嫌なこともなかったことにしなきゃ。「私を大事にして」って心の声をきかなかったことにしなきゃ。

 

苦しくて苦しくて、むしろ余計に「使えない人間」になっていったな。

 

デッキを拭いている夫は楽しそう。私が床を拭くことなんて全然期待していないみたい。

 

もしかして

 

あの時もあの時もあの時も、誰も私に「使える人間」を期待してなかったのかも。苦しみを背負ってた私はなんだったんだろう。

 

鳩のフンを片づけたデッキには、キャンバス地のチェアとウッドテーブルが広げられている。バーベキューの時は夫が肉を焼いてくれるから楽ちんだ。

 

でも気の利いたサイドメニューがあるといいかなと思ってしまう。夫や娘たちに、料理上手で「使えるお母さん」だって思ってもらいたい。

 

今日もついがんばっちゃうけど、昔ほど辛くはない。

 

英字新聞が素敵なわけ

目安時間:約 5分

梅雨の合間のいいお天気の土曜日のこと。夫と憧れの野外ピザに挑戦しようという事になった。野外ピザといっても庭にピザ窯があるわけではない。ピザ窯を作りたいわけでもない。でも外でピザってなんかカッコいい。

 

じゃあどうやって作る?。今ある七輪ふうのバーベキューコンロの上にステンレスのボウルかぶせてみたら?金属は熱伝導がいいから熱が逃げちゃうよ。じゃあ植木鉢のせれば?いいねそれやってみよう。

 

結局炭を入れるところも植木鉢にして、その上に焼き網をのせ、大きい植木鉢をかぶせて窯にすることになった。

 

早速いそいそと買い出しに。食材の調達が終わった私たちは100円ショップ「ダイソー」に向かった。焼き網を買うためだ。ちょうどいいサイズの網が見つかりホクホク顔でレジへ。

 

お会計を済ませている間、所在無げな夫は入口付近に陳列されていたパッケージ用品を眺めていた。

 

車に戻りながら夫が「英字新聞ってなんでかっこよく見えるんだろうね?」英字新聞をプリントしたパッケージ用品がたくさん並んでいたのだ。

 

夫「日本語の新聞でプレゼントを包む気になる?」

 

私「全然ならない」夫「うーんかっこよくないね」

 

夫「ハングル文字とか、アラビア文字とかでもかっこよく見えるのかなあ?」

 

想像してみた。

うーん、やっぱりかっこよくない。英語だからかっこいいのだ。

 

考えてみると不思議だ。英字新聞ならかっこいいのに、どうして日本語やハングル語やアラビア語の新聞でプレゼントを包むのはかっこ悪いんだろう。

 

若い頃モロッコを旅行したことがある。アラビアンナイトの世界の迷宮のようなカスバや、大道芸人やスリでいっぱいの市場。混沌とした世界を支配しているのはアラビア人。アラビア語をガンガンにがなり立てられ、英語もほぼ通じない。

 

宿の人、商店の人、客引きの人くらいしか接しないけど、なんでこんなにぐいぐいくるんだ?日本人とは距離の取り方が全然違う。なんかアラビア人って疲れるな。ああもう疲れちゃった。

 

モロッコはスペインと近いのは知っていた。フェリーで1時間くらい。行く予定はなかったけど、モロッコを逃げ出したくなって行くことにした。

 

ところが、スペインに渡った私はモロッコにいた時とは全く違うタイプのダメージを受けてしまう。

 

初めてのヨーロッパにワクワクしながら港から出て歩きはじめた私。石畳、道路標識、街灯、店や民家や教会などのあらゆる建造物が信じられないほど美しい。こんな素敵なのが普通?日本にあったら拝観料とれると思うよ?

 

すれ違う学生、子供、会社員らしい男女、初老の夫婦、全ての人がとにかく美しい。堀の深い顔立ち、吸い込まれそうな色の瞳。ふわふわにカールされた明るい色の髪。

 

今までいたモロッコとものすごくものすごく違う。この人たちに比べて私ってなんて汚いんだろう。汚れた靴、安物のリュック、日本人特有ののっぺりとした顔に化粧さえしていない。こんな美しい街の美しい人に囲まれたら恥ずかしくて歩くこともできない。

 

モロッコでは騙されたり、ぼられたり、散々な目にあっても、こんなダメージはうけていない。

 

ああ、ヨーロッパってすごい。私はヨーロッパのスゴさに打ちのめされてしまった。南端のスペインでさえこんななんだから、パリはどのくらいすごいんだろう?パリに打ちのめされないためにはどれくらい修行を積めばイインデスカ?

 

ニッポンのここがスゴイ!ってTVで盛んにやってる。日本は欧米に負けてない、日本の良さは世界に誇れるってみんながんばってる。でもやっぱりプレゼントを包むのは英字新聞なんだよね。

 

あれから25年。私はいまだにスペイン以外のヨーロッパの地を踏んでいない。

 

ピザは旨かった。

 

 

 

立ちしょん

目安時間:約 5分

買い物に行こうと車ででかけた時のこと。梅雨の合間の五月晴れ。街路樹の新緑が目に眩しい。私は赤信号で止まった交差点でのんびり辺りを眺めていた。

 

その時、ちょっとくたびれた茶色のシャツと黒っぽいズボンをはいたおじさんが、交差点脇の電信柱の根元をじっと見つめているのが目に入った。

 

何を熱心に見てるのかな?

目を凝らして電信柱の根元を見る。すると何かが太陽の光を反射してキラキラしている。??もしかしてオシッコ?

 

なんとおじさんは車がたくさん行き来する交差点で立ちしょんをしていたのだ。

 

そりゃあ私も子供の時は外でしたこともあった。友達と一緒に飛ばして混ぜたり、飛距離の競争とかしたものだ。

 

女の私でさえそうだったのだから、もっと手軽にできる男子はきっと私の10倍くらい外でしてたんじゃない?子供の時の立ちしょんは遊びの一つだった。

 

でも、大人になるとあんまりしなくなる。軽犯罪法違反というのもあるけど、「良識のある大人は立ちしょんはするべきでない」っていう空気になってくる。

 

それでも緊急事態というのは誰にでもある。そんな時でも普通の人は人目につかない所でこっそりやるんじゃない?

 

この交差点にも、車の人の目につかない場所はいくらでもある。ほらそこのアパートの裏とか、その大きな木の陰とか、路駐してるトラックの後ろとか。

 

だってみんなに見られてるんだよ。交差点に今集まっている少なくても10台の車の窓からみんなが見ていると思うよ。

 

おじさんすごいな。なんでこんな所でできるんだろう?おじさんは常識がないのかな?それとも常識に囚われない人なの?それとも常識が変わったの?

 

私は中学で剣道部に入っていた。剣道というのはものすごく蒸し暑いスポーツなのだ。厚手の綿の胴着を着て袴をはき、小手、面、胴までつけるのだから滝のように汗が出た。

 

でもその頃部活中に水を飲むのは厳禁だった。先生の目を盗んで飲んでいるのが見つかったりするとビンタが飛んだものだ。

 

今そんなことをしたら完全にアウトだろう。水分補給もビンタも。

 

だからもしかして立ちしょんもいいことになったのかなあ。私が知らないだけで。

 

でももし常識が変わってなくて、常識も知っていてそれでもやっているなら、おじさんになんかやられたって気がする。大胆不敵でそれでいてごく普通のことのようなさりげない立ちしょん。

 

このあふれる陽光の中で、誰の目もはばかることなく体の欲求に正直になることが、おじさんにとって国が決めた軽犯罪法を守ることよりも重要だったとしたら?

 

それを考えてるだけじゃなくて実行に移せる行動力、あの冴えないルックスからは想像できない熱いものを持っていたら?

 

「みんながみんな同じ考えじゃなくてもいいだろ?だから俺はこれで行く」タブーに挑戦してるんだ。かっこいいなあ。

 

友達とコンサートに出かけて演目が終わり、ああ楽しかったねと言いながらトイレに寄った。友達と感想を話し合いながら長い行列に並び順番を待っていると、先に並んだ友達が空いた個室に入っていった。

 

次に空いたのは友達の隣の個室。個室の壁は薄いから、隣の友人に音を聞かれそうで気が乗らない。でもその次が空くのを待つのは後ろに並んでいる人に悪いからそこへ入る。

 

私は排尿音を消す音姫を使わないのがカッコイイと思っている。誰もが立てる音なんだからありのままでいいじゃん。

 

でも隣に友達が座ってると思うとビビってしまう。私が出てきた時にさっきの派手な放尿音は私のものだったんだとバレてしまうからだ。自分の放尿音を隠さないなんて恥ずかしいと思わないのかしらと嫌われたらどうしよう。

 

だから音姫を押してしまう。シャラシャラシャラ♪

機械的な水の音を聞きながら、五月の陽光にオシッコを光らせていたおじさんを思い出す。

 

 

プロフィール

 

管理人:やっちゃん@平戸育子

ゆるベジ料理スペシャリスト

厳格なマクロビアンの家庭で育ち過食症に。克服した経験と、自然食品店勤務20年の経験を元に、簡単に作れて、美しく、食べておいしいゆる~いマクロビオティック料理の教室を主宰しています。/リマクッキング富士宮校講師歴10年/映画と読書とお酒が大好き/10代後半の子供二人と、単身赴任中で週末だけ帰ってくる夫と静岡県富士宮市に住んでいます。/自分の体を信じることで自然に健康になっちゃう考え方やレシピを配信しています。

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