家の近くのコインランドリーに行ったときのこと。
店の外にベンチがあって、そこに黒い毛布のような物体がある。え?何だろう?それがゆらっと揺れた。生きてる!動物?
その動物はゆっくりと立ち上がった。どうやら人間らしい。びくびくしながら、でもしっかり観察すると、ドレッド風の髪を腰までたらし、毛布のようなきれを身にまとったおじさんだった。
もしかして浮浪者?このベンチで寝ていたんだね。うわ怖いなあ。近づかないようにしよう。
昔は浮浪者っていっぱいいたなあ。物乞いのおじさんとか、ちょっと頭のネジのはずれた人とか。今はほとんどみないけど、みんなどこにいっちゃったんだろう?野良犬とかも前はいたけど、今はいたらいけないことになってるもんね。
昔はもっと耐性があったような気がする。浮浪者とかに。今は遭遇することがほとんどないから、恐怖が増してる気がする。物乞いとか野良犬なんて、今の子供たちは見たこともないんじゃないかな。
目にしたことがないものや、知らないものに人間は恐怖を感じるようにできてるらしい。いつも見慣れてるもの、身近に普通にあるものに囲まれていたい習性。だから異質なものを排除したくなる。
社会のルールにはみ出すもの、迷惑をかけるものは外の世界に出てこないようになっている。社会福祉施設とか病院とか保健所とかに隔離されてる。
ちゃんと生活できない老人は老人介護施設に、人とちゃんと関われない人は引きこもりに。
元気で健康でちゃんとした考えの人だけがいてもいい世界。なんかホラーみたいだ。
ちゃんと結婚して、ちゃんと子供育てして、ちゃんと働いて、ちゃんと人付き合いもして、ちゃんと親孝行しないといられない世界。
だから私はいつもびくびくしている。
今の話全然意味わからなかったんだけど、ちゃんと聞いてないかったからかな。
文化祭で残った焼きそば「誰よりもたくさんもらって帰りたい」をちゃんと隠せたかな。
ちゃんと身の程をわきまえているように見えるかな。
息子が高校でテニス部に入った時、先輩のお母さんに飲みに誘われた。あまり試合観戦に行かない私に彼女はこう言った。「息子が勝ったり負けたりするの、ちゃんと見てあげなよ。今しかないんだから。」
あー、そういう「ちゃんと」もあるんだ。いつになったらちゃんとできるんだろう?
家の近所の八百屋さんでフルーツサンドが人気だ。元々果物を得意分野にした八百屋さんなのだが、最近フルーツサンドを売り出したという。聞いたところによるとインスタで人気に火が付いたとか。10時と2時の発売時間には行列ができているらしい。
人口10万人の小さな町で、ホントかな?と思ったがホントだった。その時間に隣の銀行で用事を済ませて出てきたら、店の外まで行列ができていた。
行列ができるほど人気と聞くと興味のなかった人まで買いにいったりするから不思議だ。人が人を呼んで、今ではそこのフルーツサンドは希少価値が非常に高く、誰かにあげたりしたらとてつもなく喜ばれるものになった。
これって八百屋さんのもともと売り物のフルーツを、形を変えて売っているだけなんだよね。果物をフルーツサンドにするって思いつくのがすごいぞ。望月商店。
世の中にはお客さんの目で、長年働いている自分の店を見ることができるという特殊技能を持った人々がいる。旅先で、もやしの根を取りながら店番をするお婆さんや、見たこともない大きな葉っぱの木を新鮮な目で眺めるみたいな感じで。
そんな特殊技能を持った人は、自分の中にあるものも、お客さんの目で見ることができるのかな。いいなあ。
自分とのつきあいが長くなってくると、自分の性格や振舞いに慣れすぎて、もはや自分が何を好きなのかさえよくわからなくなってくる。子供の時はもっとはっきりしていた。良いところもいっぱいあった。でも今は埋没してて全然見えない。
でもなぜか短所には慣れることがなく、むしろより多く見つけるように努力さえしてしまう。その結果、多すぎる欠点をかかえた自分なんかより、他人の方がずっといいものに見えるのだ。
近所に映画館も、ショッピングモールもコンビニもない田舎に住んでいる人は、大都会には何でもあると強い憧れを抱くだろう。映画、お芝居、ライブなどのエンターテイメント、流行のファッション、食の豊富さ。
なぜか満員電車とか、交通渋滞とか、高すぎる生活コストとかには目が行かない。そういう構造になっている。
ふとしたきっかけで、自分の店や自分自身の良さに気付くこともある。誰かに褒められたり認められたりして。でも普通は当たり前すぎてわからないものだ。
私も望月商店みたいになりたいよ。自分の良さを発掘したい。
それにはやっぱりフルーツだな。私にとってのフルーツってなんだろう?ぐるぐるぐるぐる考え込む。店の中の品物を一つ一つじっくり見て回るみたいに。
そして気付くのだ。萎びた野菜しかないことに。フルーツなんて初めからなかったんだ。ちっ、時間の無駄だったな。
萎びた野菜しかないから漬物でも作るか。あれ、でも漬物もいいね。
午前中の用事を済ませ、ほっと一息一人ランチを楽しんでいた時のこと。
手元のスマホがピヨピヨと鳴った。電話の着信音を鳥の鳴き声にしているので、電話がくると地味にうれしい。
電話は行きつけの美容院から。
「こんにちは。今日ご予約いただいていたんですが…」
え?予約今日だったっけ?完全に忘れていた私は泡を食ってしまう。
「あうあうあ、ごめんなさい、えーとえーと忘れちゃってたみたいで;@/.%"」
「今日はどうされます?お忙しいですか?」
忙しくはない。ブログを書く使命があるだけだ。でもうーん、ちょっと気が進まない。
「あー、えーと、うーん、また予約しますねー。」
なぜ気が進まないのか。それは最近白髪を染めることに疑問を感じるようになっちゃったから。
50を過ぎている私はもう10年白髪染めをしている。「白髪があると老けてみられるから」染めることにしたけど、最近悶々としている。
そもそも白髪が生えてくるのは歳を重ねていく上で自然なこと。染めるほうが不自然で違和感は感じていたのだ。
染めるのが当たり前みたいな空気に逆らえないことに無力感もある。年のせいか染毛剤にアレルギーが出て、染めるたびに痒くなるようになってきちゃったし。
そんなある日友人とランチに行くと
「私も白髪が増えてきちゃってさ、でもさ、このままでいくことに決めた。」
えええ、私がここ何年かずっともやもやしていることをそんなあっさり?
思えば彼女は自分にいるものといらないものをよく知ってる。子供も作らなかったし、近所づきあいもしない。
「若く見られること」もいらないんだ。ああ、どうしてこんなに潔いんだろう。かっこよさに胸を打たれる。
それを聞いてから、ますます「白髪を染める=ありのままの自分を否定」感が強くなってしまったのだ。
私も「自分は自分」って胸を張って生きたい。若く見られたいっていう煩悩を捨てたい、周りの目を気にしない人間になりたい。
いいないいないいな。あんな風になりたい。
ああでも、とふと思う。煩悩だらけの自分が自分だな。きれいに見られたいし、若く見られたい。欲が深いのだ。
やっぱり美容院予約しよう。「ありのままへの道」はまだ始まったばかりだ。
「誕生会に誰が出られるか、まとめといてくれよ」
一か月後に誕生日を迎える父。今の一番の関心ごとは自分の誕生会だ。どこで開くか、いつ開くか。重要な問題だ。
父は老人介護施設にお世話になってる。洗濯も掃除も食事も入浴も手伝ってもらえる。時間がたっぷりあって退屈らしい。
ひどい癇癪持ちなので、施設の嫌われ者ベスト3に入っている。今まで世話してきた家族の苦労がわかってもらえてうれしい。
嫌われるのは癇癪のせいだけじゃない。考え方も独特なのだ。
例えばお風呂。自分の入りたい時間に、自分の思い通りの手伝いを望む。例えば食事。自分の食べたいものを、想像以上の良さで、食べたいだけ食べたい。例えばテレビ。自分の見たい番組を作らないテレビ会社を訴えたい。
周りの人の都合とか、どう思われるかとかもない。自分の考えがすべて。
そんな父を見ているうちに私はだんだん不安な気持ちになってくる。もしかして独特ってわけじゃない?これって、現代社会の罠なのかも。
なんていうか、ずっと昔は食料を調達することは大変だったからその手間に感謝できたかもしれない。でも今は何でもスーパーで買えるようになって、野菜や肉にかかってる手間なんて想像すらできなくなっちゃった。
お金さえあれば、ご飯を作っている人、お風呂に入れてくれる人、番組を作っている人の手間や心遣いを感じなくてもサービスを受け取れる。つまり、お金が手間や心遣いを見えなくしちゃってる。
作ってる人やサービスをしている人の心を受け取るにはある種の修行が必要な時代なのだ。
チョコレートを食べながら、カカオ豆を採っているガーナの少年や、小麦を栽培しているアメリカ農家のおじさん、コンテナに積み込むお兄ちゃん、工場のラインのおばさんの労力を感じるなんて、ものすごく難しそうだ。
修行を怠ると、
手間や心遣いを感じられないからよくわからない。
わからないから心遣いを他者にすることができない。
手間や心遣いを感じて欲しい他者に嫌われてしまう。
もう全然他人事じゃない。
そんな父だが誕生会はやりたい。周囲の老人が家族に祝ってもらっているというのをよく聞くから。心遣いは目に見えないが、誕生会は目に見える。修行していないから嫌われてることに気付いてない。だから祝ってもらう権利は当然ある。
となりの人が煮物をおすそ分けしてくれたら、すごくありがとうって思えるのにな。分業と貨幣で世の中はすごく便利になったけど、見えなくなったものもけっこうある。
朝窓ガラスを見たら、鳩が派手にフンをしている。網戸ごしに直径5㎝くらいの大きな白いフンがへばりついている。あーあ、ひどいなあ。
我が家の近くには鳩が多く庭にもよく遊びに来る。ヒヨドリと違ってうるさくないし、歩く姿がかわいいから結構好きなんだけど、体が大きいだけにフン害にいつも閉口している。
一日フンを眺めているのは嫌なので、ガラスクリーナーとふきんですぐにガラス磨きを始めた。ガラス磨きは始めるまでは億劫だけど、きれいになっていくのを見るのは楽しい。
掃除をはじめるきっかけを作ってくれて鳩さんありがとう、とか思う自分に酔いながら、溜まっていた汚れもついでに拭き上げて悦にひたっていた。私って仕事できるんじゃない?
ところが週末、鳩のフン事件は新たな局面を迎えた。ウッドデッキでバーベキューの支度をしていた夫がデッキの鳩のフンを拭いているのだ。その場所は、数日前に私が掃除した窓ガラスの真下部分。
実は窓ガラスを拭いている時デッキも汚れていることは知っていた。でも掃除すること自体思いつかなかったのである。
窓ガラスは目に入った途端、嫌な気分になって「拭かなきゃ」という反応が起こるのに、デッキのフンは目に入っても私の心に何の反応も起こさない。主婦失格?
「気がきく人間、細かい事に目が配れる人間」失格?
やっぱり「使えない人間」?
実家の店で働いていた時、いつも「使えない人間」感を噛みしめていた。商品に埃がついていても、店の前の道路にゴミが落ちていても、ポテチが売れてなくなっていて品出しをしなきゃならないのにも気付かない。
やるべきことは知っているのに、目に入っても行動のスイッチボタンが押されない。
姉たちは商品の埃にも、店頭のゴミにも、ポテチにもすぐ気が付く「使える人間」だった。「使える人間」じゃなきゃダメだと思っていた私は「使える人間」のふりをして姉たちの目をごまかそうとしていた。
「使える人間」のふりをしていると、自分の感覚が薄れていく。現実の世界に薄いベールがかかったみたいに、うれしいこととか、嫌なこととか、きれいなものとか、美味しいものとかがベールの分だけちょっと遠くにあるような感じ。
自分じゃない何かになるためには、自分の感覚がリアルじゃなれない。嫌なこともなかったことにしなきゃ。「私を大事にして」って心の声をきかなかったことにしなきゃ。
苦しくて苦しくて、むしろ余計に「使えない人間」になっていったな。
デッキを拭いている夫は楽しそう。私が床を拭くことなんて全然期待していないみたい。
もしかして
あの時もあの時もあの時も、誰も私に「使える人間」を期待してなかったのかも。苦しみを背負ってた私はなんだったんだろう。
鳩のフンを片づけたデッキには、キャンバス地のチェアとウッドテーブルが広げられている。バーベキューの時は夫が肉を焼いてくれるから楽ちんだ。
でも気の利いたサイドメニューがあるといいかなと思ってしまう。夫や娘たちに、料理上手で「使えるお母さん」だって思ってもらいたい。
今日もついがんばっちゃうけど、昔ほど辛くはない。
梅雨の合間のいいお天気の土曜日のこと。夫と憧れの野外ピザに挑戦しようという事になった。野外ピザといっても庭にピザ窯があるわけではない。ピザ窯を作りたいわけでもない。でも外でピザってなんかカッコいい。
じゃあどうやって作る?。今ある七輪ふうのバーベキューコンロの上にステンレスのボウルかぶせてみたら?金属は熱伝導がいいから熱が逃げちゃうよ。じゃあ植木鉢のせれば?いいねそれやってみよう。
結局炭を入れるところも植木鉢にして、その上に焼き網をのせ、大きい植木鉢をかぶせて窯にすることになった。
早速いそいそと買い出しに。食材の調達が終わった私たちは100円ショップ「ダイソー」に向かった。焼き網を買うためだ。ちょうどいいサイズの網が見つかりホクホク顔でレジへ。
お会計を済ませている間、所在無げな夫は入口付近に陳列されていたパッケージ用品を眺めていた。
車に戻りながら夫が「英字新聞ってなんでかっこよく見えるんだろうね?」英字新聞をプリントしたパッケージ用品がたくさん並んでいたのだ。
夫「日本語の新聞でプレゼントを包む気になる?」
私「全然ならない」夫「うーんかっこよくないね」
夫「ハングル文字とか、アラビア文字とかでもかっこよく見えるのかなあ?」
想像してみた。
うーん、やっぱりかっこよくない。英語だからかっこいいのだ。
考えてみると不思議だ。英字新聞ならかっこいいのに、どうして日本語やハングル語やアラビア語の新聞でプレゼントを包むのはかっこ悪いんだろう。
若い頃モロッコを旅行したことがある。アラビアンナイトの世界の迷宮のようなカスバや、大道芸人やスリでいっぱいの市場。混沌とした世界を支配しているのはアラビア人。アラビア語をガンガンにがなり立てられ、英語もほぼ通じない。
宿の人、商店の人、客引きの人くらいしか接しないけど、なんでこんなにぐいぐいくるんだ?日本人とは距離の取り方が全然違う。なんかアラビア人って疲れるな。ああもう疲れちゃった。
モロッコはスペインと近いのは知っていた。フェリーで1時間くらい。行く予定はなかったけど、モロッコを逃げ出したくなって行くことにした。
ところが、スペインに渡った私はモロッコにいた時とは全く違うタイプのダメージを受けてしまう。
初めてのヨーロッパにワクワクしながら港から出て歩きはじめた私。石畳、道路標識、街灯、店や民家や教会などのあらゆる建造物が信じられないほど美しい。こんな素敵なのが普通?日本にあったら拝観料とれると思うよ?
すれ違う学生、子供、会社員らしい男女、初老の夫婦、全ての人がとにかく美しい。堀の深い顔立ち、吸い込まれそうな色の瞳。ふわふわにカールされた明るい色の髪。
今までいたモロッコとものすごくものすごく違う。この人たちに比べて私ってなんて汚いんだろう。汚れた靴、安物のリュック、日本人特有ののっぺりとした顔に化粧さえしていない。こんな美しい街の美しい人に囲まれたら恥ずかしくて歩くこともできない。
モロッコでは騙されたり、ぼられたり、散々な目にあっても、こんなダメージはうけていない。
ああ、ヨーロッパってすごい。私はヨーロッパのスゴさに打ちのめされてしまった。南端のスペインでさえこんななんだから、パリはどのくらいすごいんだろう?パリに打ちのめされないためにはどれくらい修行を積めばイインデスカ?
ニッポンのここがスゴイ!ってTVで盛んにやってる。日本は欧米に負けてない、日本の良さは世界に誇れるってみんながんばってる。でもやっぱりプレゼントを包むのは英字新聞なんだよね。
あれから25年。私はいまだにスペイン以外のヨーロッパの地を踏んでいない。
ピザは旨かった。
買い物に行こうと車ででかけた時のこと。梅雨の合間の五月晴れ。街路樹の新緑が目に眩しい。私は赤信号で止まった交差点でのんびり辺りを眺めていた。
その時、ちょっとくたびれた茶色のシャツと黒っぽいズボンをはいたおじさんが、交差点脇の電信柱の根元をじっと見つめているのが目に入った。
何を熱心に見てるのかな?
目を凝らして電信柱の根元を見る。すると何かが太陽の光を反射してキラキラしている。??もしかしてオシッコ?
なんとおじさんは車がたくさん行き来する交差点で立ちしょんをしていたのだ。
そりゃあ私も子供の時は外でしたこともあった。友達と一緒に飛ばして混ぜたり、飛距離の競争とかしたものだ。
女の私でさえそうだったのだから、もっと手軽にできる男子はきっと私の10倍くらい外でしてたんじゃない?子供の時の立ちしょんは遊びの一つだった。
でも、大人になるとあんまりしなくなる。軽犯罪法違反というのもあるけど、「良識のある大人は立ちしょんはするべきでない」っていう空気になってくる。
それでも緊急事態というのは誰にでもある。そんな時でも普通の人は人目につかない所でこっそりやるんじゃない?
この交差点にも、車の人の目につかない場所はいくらでもある。ほらそこのアパートの裏とか、その大きな木の陰とか、路駐してるトラックの後ろとか。
だってみんなに見られてるんだよ。交差点に今集まっている少なくても10台の車の窓からみんなが見ていると思うよ。
おじさんすごいな。なんでこんな所でできるんだろう?おじさんは常識がないのかな?それとも常識に囚われない人なの?それとも常識が変わったの?
私は中学で剣道部に入っていた。剣道というのはものすごく蒸し暑いスポーツなのだ。厚手の綿の胴着を着て袴をはき、小手、面、胴までつけるのだから滝のように汗が出た。
でもその頃部活中に水を飲むのは厳禁だった。先生の目を盗んで飲んでいるのが見つかったりするとビンタが飛んだものだ。
今そんなことをしたら完全にアウトだろう。水分補給もビンタも。
だからもしかして立ちしょんもいいことになったのかなあ。私が知らないだけで。
でももし常識が変わってなくて、常識も知っていてそれでもやっているなら、おじさんになんかやられたって気がする。大胆不敵でそれでいてごく普通のことのようなさりげない立ちしょん。
このあふれる陽光の中で、誰の目もはばかることなく体の欲求に正直になることが、おじさんにとって国が決めた軽犯罪法を守ることよりも重要だったとしたら?
それを考えてるだけじゃなくて実行に移せる行動力、あの冴えないルックスからは想像できない熱いものを持っていたら?
「みんながみんな同じ考えじゃなくてもいいだろ?だから俺はこれで行く」タブーに挑戦してるんだ。かっこいいなあ。
友達とコンサートに出かけて演目が終わり、ああ楽しかったねと言いながらトイレに寄った。友達と感想を話し合いながら長い行列に並び順番を待っていると、先に並んだ友達が空いた個室に入っていった。
次に空いたのは友達の隣の個室。個室の壁は薄いから、隣の友人に音を聞かれそうで気が乗らない。でもその次が空くのを待つのは後ろに並んでいる人に悪いからそこへ入る。
私は排尿音を消す音姫を使わないのがカッコイイと思っている。誰もが立てる音なんだからありのままでいいじゃん。
でも隣に友達が座ってると思うとビビってしまう。私が出てきた時にさっきの派手な放尿音は私のものだったんだとバレてしまうからだ。自分の放尿音を隠さないなんて恥ずかしいと思わないのかしらと嫌われたらどうしよう。
だから音姫を押してしまう。シャラシャラシャラ♪
機械的な水の音を聞きながら、五月の陽光にオシッコを光らせていたおじさんを思い出す。
土曜日、息子の高校の文化祭に行った時のこと。
息子の高校では、例年PTAで焼きそばの模擬店を出してるらしい。友達がPTA役員になってて手伝いにきてと頼まれたのだ。
屋台の焼きそば買うことはよくあるけど、作るのは初めて。舞台裏はどうなってるのかな?軽くワクワクしながら現場に向かう。
でも開店2時間前の現場はそんな甘いものじゃなかった。分厚い巨大な鉄板が2枚並んだその後ろに、大量のキャベツが入った段ボールが積み重なっている。段ボールのタワーの間をすり抜けて調理場にたどり着く。いったいこのキャベツどのくらいあるんだろう?
気の遠くなりそうな量のキャベツを「洗って」「刻んで」「仕分けする」のが今日の私の仕事らしい。キャベツメンバーは5人。かなりビビっている隣の二人は、多分私同様初めてなんだな。あの落ち着いた雰囲気の婦人は経験者だね。
その隣は男性だけど戦力になんのかな?包丁も使えないんじゃ困るんだけど?あれ?この人見たことある。
その人は同じ行政区の人だった。うちの地区は秋祭りがあって、婦人部として手伝いに行ってる私は、山車を動かしている男性と祭りでよく一緒に飲んだりしている。その山車のメンバーさんだったのだ。こんなところで会うとは。
実はその人と素面で会うのは初めて。お酒って人見知りでも知らない人と仲良くなることができる魔法のクスリ。
普段は内気で話しかけられないんだけど、お酒を飲めば自意識過剰な私が影をひそめて、大胆に話すことができる。でも素面だと過剰な自意識が幅を利かせ始める。特に男性が相手だとひどい。
向こうもちらちらと私を見て気にしている様子。あああ何かすごく気まずい。私の方が年上だし、こっちから話しかけた方がいいんだろうな。でもなんて話しかけたらいいんだろう?
お酒を飲んでるハイな時と全然ちがう、人見知りでおどおどした会話しかできない私を知られたくないんだよ。でも話しかけなければ、お酒の力を借りないとコミュニケーションがとれない人間だと烙印を押されてしまう。ああどうすればいいんだろう。
そうこうしているうちに開店時間が来て、嵐のような忙しさがやってきて…。気が付いたら終了時間になっていて、例の男性はもういなくなっていました。
ああ、またやってしまった。あの人に烙印を押されてしまった。次に祭りで飲む時はまた微妙に気まずいんだろうな。
今朝見た朝ドラを思い出してしまう。高校生の時に一度だけ会ったことがある彼に、大学生になって偶然再会したヒロイン。再会のその瞬間に、彼をまっすぐに見据え「外で待ってて」と言い放つ。待っていた彼に「私のこと忘れていなかったのね」と直球ボール。
なんてカッコイイんだろう。全然おどおどしていない。彼女のようになりたいと思う。周りの人が自分に優しいと思いたいのだ。
何度も頭の中でストーリーを再現している。どうすれば彼女のように振舞えるのかヒントがあるに違いない。
でもふと思う。これはドラマだからな。もしかして彼女も現実の世界では、飲み会で仲良くなった彼と、次の日おどおど話していたらどうしよう。
日曜日の朝のこと。フライパンにオイルをたらし、薄切りベーコンをチリチリに焦がしてトーストもセット。いいにおいがしてきたぞ。さあ、朝ご飯にしようかな。
その時息子の野太い声が。「部活遅れそう、お母さん送ってくれない?」
えー?これから朝ご飯なのにー。トースト冷めちゃうじゃん、億劫だなあ。
でも息子にいい顔をみせたい私はそんな本音はおくびにも出さない。
「うーん、送ってあげたいけど、ねえ、その、今日は行政区の掃除があるんだよね。」もちろんウソだ。息子もうすうす感づいている。まずい。
そこへ夫が起きてきた。
「あ、お父さんに送ってもらう?」
息子はどっちでも別にいいのだ。
起きたばかりの寝ぼけ顔で「じゃ、行くか」と息子を送っていく夫。奴は億劫に思ってないな。
人間には、億劫センサーの鈍い人というのがいる。雑用をする時に億劫に感じない人の事だ。
例えば備品の交換。トイレの電気切れてるなと気づいたらその場で付け替えたり、サランラップがなくなったらその日のうちに買いに行くことができる。三色ボールペンで黒インクがなくなると、青と赤で書き続ける私には決してできない。
或いは整理。読み終わった新聞をそのつどきちんと積み上げて行ったり、たたんだ洗濯物を奥から順番に並べるとか。使い終わった食器を乱雑に食器棚に放り込んだあげく、月一で派手に割ってしまうような私と、いったいどこが違うんだろう?
或いは頼まれごと。電子辞書の電池がなくなったから単三電池とってくれない?と言われて電池を渡すだけじゃなく交換までしたり、掃除機かけてと頼まれると、椅子やソファの座面や足の裏、フロアマットをひっぺがして裏までかけたりするとか。
貴重な時間を奪われないよう、最小限の時間と労力でやってのけることに情熱を傾けている私は、頼んだこと以上のことをしてくる人に、うれしいとか、優しいとか思うより、恐れに近いものを感じる。
もしかして時間の流れが自分とは違うんじゃないか?とか、彼らの目は、目の前の雑事をきらきらした仕事に見せる機能を持ってるんじゃないかとか、もしかして世界の秘密を知ってるんじゃないかとか。
世の中は億劫センサーが敏感な人が多い。私のように何をするのも面倒に感じる人だ。そういう人に頼み事をする時はセンサーに引っかからないように慎重に言葉を選ばなければならない。センサーの鈍い人に慣れてしまうと敏感な人への対応力が鈍ってしまう。
何より自分のセンサーがどんどん鈍くなってきそう。
センサーが鈍くなったら雑用が嫌だなーと思わなくなっちゃう。そうすると色んな事が目に入ってきちゃう。
例えば掃除機のノズルのブラシについたほこりに気がついちゃって、それをとるのが楽しくなって夢中でノズル掃除をしちゃうとか。そしていつの間にか、貴重な時間をそれらに費やすようになっちゃったらどうしよう?
私は時間をブログを書いたりするクリエイティブな活動に使いたいんだよ。
でもセンサーの鈍い人の方がずっと楽しそうに見えるのはなぜ?
雑用を嬉々として楽しんでやってるあの人たちは、おもちゃを独り占めしないでみんなと仲良く遊んでる子供みたい。
クリエイティブな私は、おもちゃを誰にも渡さないで横目でうらやましそうに見ているだけなのだ。
こんにちは。とびらです。
「ねえ今日忙しい?」姉から来た一本の電話。すっごーく嫌な予感がしました。今日は姉が父を病院に連れていく予定の日。父は近年軽く認知入ってきたせいもあって癇癪がひどい。あー、お姉ちゃん、我慢の限界か?
話を聞くと10時半までに病院に行かなきゃならないのに、その前に市役所と針灸に行くという過密スケジュール。それに姉が遅れたといって癇癪だまを爆発させたらしい。
いいよいいよ、もう我慢しなくて。私が行ってくるよ。
迎えに行った父はものすっごーく怒っていた。脳みそが沸騰しそうに。目の玉がとびでそうに。82歳、まだこんなに怒れるんだ。長生きしそうだな。
父の言い分はこうだ。
「約束の時間に15分も遅れてきて、一言も謝らない。一言謝ればそれで済むのに謝らないなんて常識がなさすぎる。あんなのは社会的に許されないぞ。」
はあ、やっぱりそんなことでしたか。いや多分そんなことだろうとは思っていましたよ。はあーーーーー。
出発の30分前に電話が来て、慌てて支度して出かけてきた姉のことを一ミリも考えることができないんだね。想像力がゼロ、0、○○ーーーー。
はらわたが煮えくり返りそう。あーこれがわが父か。
人生が、家族を使ってちょいちょい私にチャレンジしてくるなあ。イヤーな出来事を何度も起こして、私をパワーアップさせようとしてるな。いいよ、受けて立つさ。負けないよ。
私「常識が通じない人っていっぱいいるよね。寛大なところみせて許してやればいいじゃん。」
父「ぐうう・・・。」
ふん、黙ったか。やったね。これで今日はもうおとなしくしてるな。
と思ったのもつかの間。
病院でも予約通りに診察が始まらないといって烈火のごとく怒りだし…。
人生のチャレンジ続くなあ、いったいゴールはどこ?
「嫌な出来事は自分の嫌いな部分を許すために起こっている。嫌な出来事は自分の心を投影しているだけだから。だからその気持ちをよく味わって、それにOKを出せばいい」
って聞いたっけ。あーやだやだ。父に言ってる場合じゃなかったのか。自分もうちょっと寛大になれやー、許してやれやー。許さないとこのステージクリアできないぞー。もう飽きた。そろそろ次行きたい。
ステージをクリアしたいから
今日許せないこと、今日イラっとしたこと、今日めんどくさいと思ったことを流さないでしっかり味わおうと思う。
色んな味を味わってるうちにきっと、美味しく感じる時がくるような気がする。大人になって苦みとか辛みとかが美味しくなったみたいにね。
あー、今日も味わうやついっぱいあるなー。