家の近くのコインランドリーに行ったときのこと。
店の外にベンチがあって、そこに黒い毛布のような物体がある。え?何だろう?それがゆらっと揺れた。生きてる!動物?
その動物はゆっくりと立ち上がった。どうやら人間らしい。びくびくしながら、でもしっかり観察すると、ドレッド風の髪を腰までたらし、毛布のようなきれを身にまとったおじさんだった。
もしかして浮浪者?このベンチで寝ていたんだね。うわ怖いなあ。近づかないようにしよう。
昔は浮浪者っていっぱいいたなあ。物乞いのおじさんとか、ちょっと頭のネジのはずれた人とか。今はほとんどみないけど、みんなどこにいっちゃったんだろう?野良犬とかも前はいたけど、今はいたらいけないことになってるもんね。
昔はもっと耐性があったような気がする。浮浪者とかに。今は遭遇することがほとんどないから、恐怖が増してる気がする。物乞いとか野良犬なんて、今の子供たちは見たこともないんじゃないかな。
目にしたことがないものや、知らないものに人間は恐怖を感じるようにできてるらしい。いつも見慣れてるもの、身近に普通にあるものに囲まれていたい習性。だから異質なものを排除したくなる。
社会のルールにはみ出すもの、迷惑をかけるものは外の世界に出てこないようになっている。社会福祉施設とか病院とか保健所とかに隔離されてる。
ちゃんと生活できない老人は老人介護施設に、人とちゃんと関われない人は引きこもりに。
元気で健康でちゃんとした考えの人だけがいてもいい世界。なんかホラーみたいだ。
ちゃんと結婚して、ちゃんと子供育てして、ちゃんと働いて、ちゃんと人付き合いもして、ちゃんと親孝行しないといられない世界。
だから私はいつもびくびくしている。
今の話全然意味わからなかったんだけど、ちゃんと聞いてないかったからかな。
文化祭で残った焼きそば「誰よりもたくさんもらって帰りたい」をちゃんと隠せたかな。
ちゃんと身の程をわきまえているように見えるかな。
息子が高校でテニス部に入った時、先輩のお母さんに飲みに誘われた。あまり試合観戦に行かない私に彼女はこう言った。「息子が勝ったり負けたりするの、ちゃんと見てあげなよ。今しかないんだから。」
あー、そういう「ちゃんと」もあるんだ。いつになったらちゃんとできるんだろう?
家の近所の八百屋さんでフルーツサンドが人気だ。元々果物を得意分野にした八百屋さんなのだが、最近フルーツサンドを売り出したという。聞いたところによるとインスタで人気に火が付いたとか。10時と2時の発売時間には行列ができているらしい。
人口10万人の小さな町で、ホントかな?と思ったがホントだった。その時間に隣の銀行で用事を済ませて出てきたら、店の外まで行列ができていた。
行列ができるほど人気と聞くと興味のなかった人まで買いにいったりするから不思議だ。人が人を呼んで、今ではそこのフルーツサンドは希少価値が非常に高く、誰かにあげたりしたらとてつもなく喜ばれるものになった。
![](http://hiratoyas.com/wp-content/uploads/2018/06/28150831_144368572926840_4541324743197851648_n-312x312.jpg)
これって八百屋さんのもともと売り物のフルーツを、形を変えて売っているだけなんだよね。果物をフルーツサンドにするって思いつくのがすごいぞ。望月商店。
世の中にはお客さんの目で、長年働いている自分の店を見ることができるという特殊技能を持った人々がいる。旅先で、もやしの根を取りながら店番をするお婆さんや、見たこともない大きな葉っぱの木を新鮮な目で眺めるみたいな感じで。
そんな特殊技能を持った人は、自分の中にあるものも、お客さんの目で見ることができるのかな。いいなあ。
自分とのつきあいが長くなってくると、自分の性格や振舞いに慣れすぎて、もはや自分が何を好きなのかさえよくわからなくなってくる。子供の時はもっとはっきりしていた。良いところもいっぱいあった。でも今は埋没してて全然見えない。
でもなぜか短所には慣れることがなく、むしろより多く見つけるように努力さえしてしまう。その結果、多すぎる欠点をかかえた自分なんかより、他人の方がずっといいものに見えるのだ。
近所に映画館も、ショッピングモールもコンビニもない田舎に住んでいる人は、大都会には何でもあると強い憧れを抱くだろう。映画、お芝居、ライブなどのエンターテイメント、流行のファッション、食の豊富さ。
なぜか満員電車とか、交通渋滞とか、高すぎる生活コストとかには目が行かない。そういう構造になっている。
ふとしたきっかけで、自分の店や自分自身の良さに気付くこともある。誰かに褒められたり認められたりして。でも普通は当たり前すぎてわからないものだ。
私も望月商店みたいになりたいよ。自分の良さを発掘したい。
それにはやっぱりフルーツだな。私にとってのフルーツってなんだろう?ぐるぐるぐるぐる考え込む。店の中の品物を一つ一つじっくり見て回るみたいに。
そして気付くのだ。萎びた野菜しかないことに。フルーツなんて初めからなかったんだ。ちっ、時間の無駄だったな。
萎びた野菜しかないから漬物でも作るか。あれ、でも漬物もいいね。
午前中の用事を済ませ、ほっと一息一人ランチを楽しんでいた時のこと。
手元のスマホがピヨピヨと鳴った。電話の着信音を鳥の鳴き声にしているので、電話がくると地味にうれしい。
電話は行きつけの美容院から。
「こんにちは。今日ご予約いただいていたんですが…」
え?予約今日だったっけ?完全に忘れていた私は泡を食ってしまう。
「あうあうあ、ごめんなさい、えーとえーと忘れちゃってたみたいで;@/.%"」
「今日はどうされます?お忙しいですか?」
忙しくはない。ブログを書く使命があるだけだ。でもうーん、ちょっと気が進まない。
「あー、えーと、うーん、また予約しますねー。」
なぜ気が進まないのか。それは最近白髪を染めることに疑問を感じるようになっちゃったから。
50を過ぎている私はもう10年白髪染めをしている。「白髪があると老けてみられるから」染めることにしたけど、最近悶々としている。
そもそも白髪が生えてくるのは歳を重ねていく上で自然なこと。染めるほうが不自然で違和感は感じていたのだ。
染めるのが当たり前みたいな空気に逆らえないことに無力感もある。年のせいか染毛剤にアレルギーが出て、染めるたびに痒くなるようになってきちゃったし。
そんなある日友人とランチに行くと
「私も白髪が増えてきちゃってさ、でもさ、このままでいくことに決めた。」
えええ、私がここ何年かずっともやもやしていることをそんなあっさり?
思えば彼女は自分にいるものといらないものをよく知ってる。子供も作らなかったし、近所づきあいもしない。
「若く見られること」もいらないんだ。ああ、どうしてこんなに潔いんだろう。かっこよさに胸を打たれる。
それを聞いてから、ますます「白髪を染める=ありのままの自分を否定」感が強くなってしまったのだ。
私も「自分は自分」って胸を張って生きたい。若く見られたいっていう煩悩を捨てたい、周りの目を気にしない人間になりたい。
いいないいないいな。あんな風になりたい。
ああでも、とふと思う。煩悩だらけの自分が自分だな。きれいに見られたいし、若く見られたい。欲が深いのだ。
やっぱり美容院予約しよう。「ありのままへの道」はまだ始まったばかりだ。
「誕生会に誰が出られるか、まとめといてくれよ」
一か月後に誕生日を迎える父。今の一番の関心ごとは自分の誕生会だ。どこで開くか、いつ開くか。重要な問題だ。
父は老人介護施設にお世話になってる。洗濯も掃除も食事も入浴も手伝ってもらえる。時間がたっぷりあって退屈らしい。
ひどい癇癪持ちなので、施設の嫌われ者ベスト3に入っている。今まで世話してきた家族の苦労がわかってもらえてうれしい。
嫌われるのは癇癪のせいだけじゃない。考え方も独特なのだ。
例えばお風呂。自分の入りたい時間に、自分の思い通りの手伝いを望む。例えば食事。自分の食べたいものを、想像以上の良さで、食べたいだけ食べたい。例えばテレビ。自分の見たい番組を作らないテレビ会社を訴えたい。
周りの人の都合とか、どう思われるかとかもない。自分の考えがすべて。
そんな父を見ているうちに私はだんだん不安な気持ちになってくる。もしかして独特ってわけじゃない?これって、現代社会の罠なのかも。
なんていうか、ずっと昔は食料を調達することは大変だったからその手間に感謝できたかもしれない。でも今は何でもスーパーで買えるようになって、野菜や肉にかかってる手間なんて想像すらできなくなっちゃった。
お金さえあれば、ご飯を作っている人、お風呂に入れてくれる人、番組を作っている人の手間や心遣いを感じなくてもサービスを受け取れる。つまり、お金が手間や心遣いを見えなくしちゃってる。
作ってる人やサービスをしている人の心を受け取るにはある種の修行が必要な時代なのだ。
チョコレートを食べながら、カカオ豆を採っているガーナの少年や、小麦を栽培しているアメリカ農家のおじさん、コンテナに積み込むお兄ちゃん、工場のラインのおばさんの労力を感じるなんて、ものすごく難しそうだ。
修行を怠ると、
手間や心遣いを感じられないからよくわからない。
わからないから心遣いを他者にすることができない。
手間や心遣いを感じて欲しい他者に嫌われてしまう。
もう全然他人事じゃない。
そんな父だが誕生会はやりたい。周囲の老人が家族に祝ってもらっているというのをよく聞くから。心遣いは目に見えないが、誕生会は目に見える。修行していないから嫌われてることに気付いてない。だから祝ってもらう権利は当然ある。
となりの人が煮物をおすそ分けしてくれたら、すごくありがとうって思えるのにな。分業と貨幣で世の中はすごく便利になったけど、見えなくなったものもけっこうある。
朝窓ガラスを見たら、鳩が派手にフンをしている。網戸ごしに直径5㎝くらいの大きな白いフンがへばりついている。あーあ、ひどいなあ。
我が家の近くには鳩が多く庭にもよく遊びに来る。ヒヨドリと違ってうるさくないし、歩く姿がかわいいから結構好きなんだけど、体が大きいだけにフン害にいつも閉口している。
一日フンを眺めているのは嫌なので、ガラスクリーナーとふきんですぐにガラス磨きを始めた。ガラス磨きは始めるまでは億劫だけど、きれいになっていくのを見るのは楽しい。
掃除をはじめるきっかけを作ってくれて鳩さんありがとう、とか思う自分に酔いながら、溜まっていた汚れもついでに拭き上げて悦にひたっていた。私って仕事できるんじゃない?
ところが週末、鳩のフン事件は新たな局面を迎えた。ウッドデッキでバーベキューの支度をしていた夫がデッキの鳩のフンを拭いているのだ。その場所は、数日前に私が掃除した窓ガラスの真下部分。
実は窓ガラスを拭いている時デッキも汚れていることは知っていた。でも掃除すること自体思いつかなかったのである。
窓ガラスは目に入った途端、嫌な気分になって「拭かなきゃ」という反応が起こるのに、デッキのフンは目に入っても私の心に何の反応も起こさない。主婦失格?
「気がきく人間、細かい事に目が配れる人間」失格?
やっぱり「使えない人間」?
実家の店で働いていた時、いつも「使えない人間」感を噛みしめていた。商品に埃がついていても、店の前の道路にゴミが落ちていても、ポテチが売れてなくなっていて品出しをしなきゃならないのにも気付かない。
やるべきことは知っているのに、目に入っても行動のスイッチボタンが押されない。
姉たちは商品の埃にも、店頭のゴミにも、ポテチにもすぐ気が付く「使える人間」だった。「使える人間」じゃなきゃダメだと思っていた私は「使える人間」のふりをして姉たちの目をごまかそうとしていた。
「使える人間」のふりをしていると、自分の感覚が薄れていく。現実の世界に薄いベールがかかったみたいに、うれしいこととか、嫌なこととか、きれいなものとか、美味しいものとかがベールの分だけちょっと遠くにあるような感じ。
自分じゃない何かになるためには、自分の感覚がリアルじゃなれない。嫌なこともなかったことにしなきゃ。「私を大事にして」って心の声をきかなかったことにしなきゃ。
苦しくて苦しくて、むしろ余計に「使えない人間」になっていったな。
デッキを拭いている夫は楽しそう。私が床を拭くことなんて全然期待していないみたい。
もしかして
あの時もあの時もあの時も、誰も私に「使える人間」を期待してなかったのかも。苦しみを背負ってた私はなんだったんだろう。
鳩のフンを片づけたデッキには、キャンバス地のチェアとウッドテーブルが広げられている。バーベキューの時は夫が肉を焼いてくれるから楽ちんだ。
でも気の利いたサイドメニューがあるといいかなと思ってしまう。夫や娘たちに、料理上手で「使えるお母さん」だって思ってもらいたい。
今日もついがんばっちゃうけど、昔ほど辛くはない。