女友達と話していた時のこと。
最近見た映画の話をしていたのだが、その流れから、今まで見た中で一番好きな映画は何かという話になった。「一番を決めるのって難しいよねー。」と言いながら、相手の出方を見る。
こういう時、好きな映画を言うのがすごく怖い。どんな映画が好きかで、その人が人生で何を大事にしているのかがわかってしまうような気がするからだ。
ハリウッド映画が好きだなんて言ったら、人生の機微が分からない人って思われるんじゃないか。表面に見えるものだけを大事にして、その奥にあるものを大事にしない人に思われるんじゃないかって。
もし相手が、「一番好きなのはニューヨークの恋人かなあ」とか言ったりしたらすごく気が楽になる。「レミゼも良かったなー」っていうのもいい。大好きなのはスターウォーズだと本当のことを言っても大丈夫だ。
でも友人はこう言った。「うーん、やっぱりアメリかなあ。次点がグランブルー。若いころはフランス映画しか観なかったから、アメリカの映画良く知らないんだよね。」
こんな場合は返答がとても難しい。彼女にハリウッドしか知らないエセ映画好きと思われないようにしなければならない。頭の中で今まで見た中で難解だった映画をあげてみる。「フランス映画=難解」という私の常識にあてはめて。
これはどうかな?
私「マグノリアはよかったな。あとインセプションも好き」
友人「トム・クルーズ、ディカプリオ、あんた相変わらずイケメンが好きだよねー。」
そうだ、難解なだけじゃだめなんだ、フランス映画だよフランス映画。
私「ニキータもよかったよね、あ、最強の二人も好き。」
友人「あれってあんまりフランス映画っぽさはないよねー。」
あー、難解さを忘れてた。でも「気狂いピエロ」や「山猫」は全然だめだ。魂を売り渡さないとおもしろいって言えない。
本当は一番好きなのはスターウォーズだ。フランス映画の対極にあるようなベタベタなハリウッド映画。勧善懲悪のわかりやすいストーリー、銀河が辺境という圧倒的なスケール感。でも友人に理解してもらえないだろうと思うと辛い。
その辛さを避けるために、まあまあ好きなフランス映画を並べる。でもスターウォーズを好きなほどの情熱はないから、あまり盛り上がらない。
スターウォーズが一番って言えばよかったかな?
でもそれだと、自分が全く普通だと告白することになる。世界中の誰もが好きなスターウォーズが一番好きなんて。フランス映画が好きな友人にそんなこと言ったら負けだ。
長い間、普通じゃない特別な何かに憧れている。この世界を普通とは違うフィルターで見ている人達に対する憧れ。それに比べて自分の感覚はあまりにも普通。
自分の中の定義としてスターウォーズは普通、フランス映画は普通じゃないというのがある。
だからスターウォーズが好きなのに、フランス映画が好きな友人が好きなのだ。そんな友人に認めてもらい、普通じゃない気分を味わいたいから、ちょい難のフランス映画を頭の中で高速サーチする。
でもだめだ、もう出てこない。もう負けだ。
本当のこと言うしかないか。第一位スターウォーズ、第二位風の谷のナウシカ、第三位釣りバカ日誌。こんな普通の私でもよかったら改めてつきあってください。
夫と朝食をとっていたときのこと。
夫が食卓の椅子に座ろうとして、腰に手を当てて顔をしかめている。
「どうしたの?腰痛いの?」
「うん、なんか昨日から急に。」
「昨日なんかしたの?」
「思い当たることもないんだけど…。」
いつも腰痛がある人じゃないので、疲労かな、ぎっくり腰かな、もしかして内臓かな、と不安になる。
体の中のことってよくわからないから不安だ。痛みがあっても目には見えないからどこが痛いのかはっきりとはわからない。病院に行ったとしても、わからないからうまく言葉にできず、伝わらない。
それでも上手にくみ取ってくれるお医者さんに診てもらえたり、レントゲンをとったりして、病名が付くと安心する。
病気だとわかって安心するというのも変だけど、自分の痛みや気持ち悪さが、ちゃんとした病気で、名前もついているとわかると安心できる。
病気なら治療できるかもしれないし、治療できなくても痛みをわかってもらえる。
自分にしかわからないというのはとてつもなく不安だ。
新しいことを始める時とちょっと似ている。初めてのことってわからなさすぎて、どこがわからないかを言葉にすることもできない。だから聞くこともできない。
例えば初めて彼氏とデートした時。
年下でお金がなかった彼が、その日は奮発してお寿司屋さんに連れて行ってくれた。座ったのはカウンター席。私も若かったので緊張していた。
そんな初々しいカップルに店の大将は色々話しかけて盛り上げてくれた。気遣ってくれたんだと思う。でもどんどん機嫌が悪くなる彼。
何かがまずかったんだと思う。でもわからない。何が悪かったんだろう?彼に聞いても「怒ってないよ」と言う。怒った顔で。
経験を重ねた今なら、なけなしのお金をはたいてくれた彼とじゃなく、大将と盛り上がるなんて、絶対アウトだったとわかる。
あの時、そういうのに嫉妬っていう名前があることを知ってたら、ちゃんと対処できたのに。
今だってわからないことだらけだ。
ブログを始めたのはいいけど、教科書通りにやったら苦しくてたまらない。
世の中には教科書通りにやって上手くできる人が多いようだ。ブログアフィリエイト初めて一か月で月収50万円!とか、○○PV達成!とか。みんなすごいな。苦しくないのかな。
最近、この苦しみには「興味ないことをやっている」って名前がついていることを知った。ああだからこんなに苦しかったんだ。やっぱり名前がつくとすごく安心する。それだけで苦しさが消える。
「興味あること」に方向かえてみたけどやっぱりわかんないことばかり。こんなことばかりして何になるんだろう?と毎日が不安だ。でも苦しくない。生きてる感じがする。
空き地で、草や拾ってきた段ボールで秘密基地を作ってた子供時代に戻ったみたいな気がする。方向合ってるんじゃない?
きっと明日もわからないことで頭がぐちゃぐちゃになる。でもきっとそのうち名前が付くから大丈夫、だと思う。
家の近くのコインランドリーに行ったときのこと。
店の外にベンチがあって、そこに黒い毛布のような物体がある。え?何だろう?それがゆらっと揺れた。生きてる!動物?
その動物はゆっくりと立ち上がった。どうやら人間らしい。びくびくしながら、でもしっかり観察すると、ドレッド風の髪を腰までたらし、毛布のようなきれを身にまとったおじさんだった。
もしかして浮浪者?このベンチで寝ていたんだね。うわ怖いなあ。近づかないようにしよう。
昔は浮浪者っていっぱいいたなあ。物乞いのおじさんとか、ちょっと頭のネジのはずれた人とか。今はほとんどみないけど、みんなどこにいっちゃったんだろう?野良犬とかも前はいたけど、今はいたらいけないことになってるもんね。
昔はもっと耐性があったような気がする。浮浪者とかに。今は遭遇することがほとんどないから、恐怖が増してる気がする。物乞いとか野良犬なんて、今の子供たちは見たこともないんじゃないかな。
目にしたことがないものや、知らないものに人間は恐怖を感じるようにできてるらしい。いつも見慣れてるもの、身近に普通にあるものに囲まれていたい習性。だから異質なものを排除したくなる。
社会のルールにはみ出すもの、迷惑をかけるものは外の世界に出てこないようになっている。社会福祉施設とか病院とか保健所とかに隔離されてる。
ちゃんと生活できない老人は老人介護施設に、人とちゃんと関われない人は引きこもりに。
元気で健康でちゃんとした考えの人だけがいてもいい世界。なんかホラーみたいだ。
ちゃんと結婚して、ちゃんと子供育てして、ちゃんと働いて、ちゃんと人付き合いもして、ちゃんと親孝行しないといられない世界。
だから私はいつもびくびくしている。
今の話全然意味わからなかったんだけど、ちゃんと聞いてないかったからかな。
文化祭で残った焼きそば「誰よりもたくさんもらって帰りたい」をちゃんと隠せたかな。
ちゃんと身の程をわきまえているように見えるかな。
息子が高校でテニス部に入った時、先輩のお母さんに飲みに誘われた。あまり試合観戦に行かない私に彼女はこう言った。「息子が勝ったり負けたりするの、ちゃんと見てあげなよ。今しかないんだから。」
あー、そういう「ちゃんと」もあるんだ。いつになったらちゃんとできるんだろう?
家の近所の八百屋さんでフルーツサンドが人気だ。元々果物を得意分野にした八百屋さんなのだが、最近フルーツサンドを売り出したという。聞いたところによるとインスタで人気に火が付いたとか。10時と2時の発売時間には行列ができているらしい。
人口10万人の小さな町で、ホントかな?と思ったがホントだった。その時間に隣の銀行で用事を済ませて出てきたら、店の外まで行列ができていた。
行列ができるほど人気と聞くと興味のなかった人まで買いにいったりするから不思議だ。人が人を呼んで、今ではそこのフルーツサンドは希少価値が非常に高く、誰かにあげたりしたらとてつもなく喜ばれるものになった。
これって八百屋さんのもともと売り物のフルーツを、形を変えて売っているだけなんだよね。果物をフルーツサンドにするって思いつくのがすごいぞ。望月商店。
世の中にはお客さんの目で、長年働いている自分の店を見ることができるという特殊技能を持った人々がいる。旅先で、もやしの根を取りながら店番をするお婆さんや、見たこともない大きな葉っぱの木を新鮮な目で眺めるみたいな感じで。
そんな特殊技能を持った人は、自分の中にあるものも、お客さんの目で見ることができるのかな。いいなあ。
自分とのつきあいが長くなってくると、自分の性格や振舞いに慣れすぎて、もはや自分が何を好きなのかさえよくわからなくなってくる。子供の時はもっとはっきりしていた。良いところもいっぱいあった。でも今は埋没してて全然見えない。
でもなぜか短所には慣れることがなく、むしろより多く見つけるように努力さえしてしまう。その結果、多すぎる欠点をかかえた自分なんかより、他人の方がずっといいものに見えるのだ。
近所に映画館も、ショッピングモールもコンビニもない田舎に住んでいる人は、大都会には何でもあると強い憧れを抱くだろう。映画、お芝居、ライブなどのエンターテイメント、流行のファッション、食の豊富さ。
なぜか満員電車とか、交通渋滞とか、高すぎる生活コストとかには目が行かない。そういう構造になっている。
ふとしたきっかけで、自分の店や自分自身の良さに気付くこともある。誰かに褒められたり認められたりして。でも普通は当たり前すぎてわからないものだ。
私も望月商店みたいになりたいよ。自分の良さを発掘したい。
それにはやっぱりフルーツだな。私にとってのフルーツってなんだろう?ぐるぐるぐるぐる考え込む。店の中の品物を一つ一つじっくり見て回るみたいに。
そして気付くのだ。萎びた野菜しかないことに。フルーツなんて初めからなかったんだ。ちっ、時間の無駄だったな。
萎びた野菜しかないから漬物でも作るか。あれ、でも漬物もいいね。
午前中の用事を済ませ、ほっと一息一人ランチを楽しんでいた時のこと。
手元のスマホがピヨピヨと鳴った。電話の着信音を鳥の鳴き声にしているので、電話がくると地味にうれしい。
電話は行きつけの美容院から。
「こんにちは。今日ご予約いただいていたんですが…」
え?予約今日だったっけ?完全に忘れていた私は泡を食ってしまう。
「あうあうあ、ごめんなさい、えーとえーと忘れちゃってたみたいで;@/.%"」
「今日はどうされます?お忙しいですか?」
忙しくはない。ブログを書く使命があるだけだ。でもうーん、ちょっと気が進まない。
「あー、えーと、うーん、また予約しますねー。」
なぜ気が進まないのか。それは最近白髪を染めることに疑問を感じるようになっちゃったから。
50を過ぎている私はもう10年白髪染めをしている。「白髪があると老けてみられるから」染めることにしたけど、最近悶々としている。
そもそも白髪が生えてくるのは歳を重ねていく上で自然なこと。染めるほうが不自然で違和感は感じていたのだ。
染めるのが当たり前みたいな空気に逆らえないことに無力感もある。年のせいか染毛剤にアレルギーが出て、染めるたびに痒くなるようになってきちゃったし。
そんなある日友人とランチに行くと
「私も白髪が増えてきちゃってさ、でもさ、このままでいくことに決めた。」
えええ、私がここ何年かずっともやもやしていることをそんなあっさり?
思えば彼女は自分にいるものといらないものをよく知ってる。子供も作らなかったし、近所づきあいもしない。
「若く見られること」もいらないんだ。ああ、どうしてこんなに潔いんだろう。かっこよさに胸を打たれる。
それを聞いてから、ますます「白髪を染める=ありのままの自分を否定」感が強くなってしまったのだ。
私も「自分は自分」って胸を張って生きたい。若く見られたいっていう煩悩を捨てたい、周りの目を気にしない人間になりたい。
いいないいないいな。あんな風になりたい。
ああでも、とふと思う。煩悩だらけの自分が自分だな。きれいに見られたいし、若く見られたい。欲が深いのだ。
やっぱり美容院予約しよう。「ありのままへの道」はまだ始まったばかりだ。