朝窓ガラスを見たら、鳩が派手にフンをしている。網戸ごしに直径5㎝くらいの大きな白いフンがへばりついている。あーあ、ひどいなあ。
我が家の近くには鳩が多く庭にもよく遊びに来る。ヒヨドリと違ってうるさくないし、歩く姿がかわいいから結構好きなんだけど、体が大きいだけにフン害にいつも閉口している。
一日フンを眺めているのは嫌なので、ガラスクリーナーとふきんですぐにガラス磨きを始めた。ガラス磨きは始めるまでは億劫だけど、きれいになっていくのを見るのは楽しい。
掃除をはじめるきっかけを作ってくれて鳩さんありがとう、とか思う自分に酔いながら、溜まっていた汚れもついでに拭き上げて悦にひたっていた。私って仕事できるんじゃない?
ところが週末、鳩のフン事件は新たな局面を迎えた。ウッドデッキでバーベキューの支度をしていた夫がデッキの鳩のフンを拭いているのだ。その場所は、数日前に私が掃除した窓ガラスの真下部分。
実は窓ガラスを拭いている時デッキも汚れていることは知っていた。でも掃除すること自体思いつかなかったのである。
窓ガラスは目に入った途端、嫌な気分になって「拭かなきゃ」という反応が起こるのに、デッキのフンは目に入っても私の心に何の反応も起こさない。主婦失格?
「気がきく人間、細かい事に目が配れる人間」失格?
やっぱり「使えない人間」?
実家の店で働いていた時、いつも「使えない人間」感を噛みしめていた。商品に埃がついていても、店の前の道路にゴミが落ちていても、ポテチが売れてなくなっていて品出しをしなきゃならないのにも気付かない。
やるべきことは知っているのに、目に入っても行動のスイッチボタンが押されない。
姉たちは商品の埃にも、店頭のゴミにも、ポテチにもすぐ気が付く「使える人間」だった。「使える人間」じゃなきゃダメだと思っていた私は「使える人間」のふりをして姉たちの目をごまかそうとしていた。
「使える人間」のふりをしていると、自分の感覚が薄れていく。現実の世界に薄いベールがかかったみたいに、うれしいこととか、嫌なこととか、きれいなものとか、美味しいものとかがベールの分だけちょっと遠くにあるような感じ。
自分じゃない何かになるためには、自分の感覚がリアルじゃなれない。嫌なこともなかったことにしなきゃ。「私を大事にして」って心の声をきかなかったことにしなきゃ。
苦しくて苦しくて、むしろ余計に「使えない人間」になっていったな。
デッキを拭いている夫は楽しそう。私が床を拭くことなんて全然期待していないみたい。
もしかして
あの時もあの時もあの時も、誰も私に「使える人間」を期待してなかったのかも。苦しみを背負ってた私はなんだったんだろう。
鳩のフンを片づけたデッキには、キャンバス地のチェアとウッドテーブルが広げられている。バーベキューの時は夫が肉を焼いてくれるから楽ちんだ。
でも気の利いたサイドメニューがあるといいかなと思ってしまう。夫や娘たちに、料理上手で「使えるお母さん」だって思ってもらいたい。
今日もついがんばっちゃうけど、昔ほど辛くはない。