日曜日の朝のこと。フライパンにオイルをたらし、薄切りベーコンをチリチリに焦がしてトーストもセット。いいにおいがしてきたぞ。さあ、朝ご飯にしようかな。
その時息子の野太い声が。「部活遅れそう、お母さん送ってくれない?」
えー?これから朝ご飯なのにー。トースト冷めちゃうじゃん、億劫だなあ。
でも息子にいい顔をみせたい私はそんな本音はおくびにも出さない。
「うーん、送ってあげたいけど、ねえ、その、今日は行政区の掃除があるんだよね。」もちろんウソだ。息子もうすうす感づいている。まずい。
そこへ夫が起きてきた。
「あ、お父さんに送ってもらう?」
息子はどっちでも別にいいのだ。
起きたばかりの寝ぼけ顔で「じゃ、行くか」と息子を送っていく夫。奴は億劫に思ってないな。
人間には、億劫センサーの鈍い人というのがいる。雑用をする時に億劫に感じない人の事だ。
例えば備品の交換。トイレの電気切れてるなと気づいたらその場で付け替えたり、サランラップがなくなったらその日のうちに買いに行くことができる。三色ボールペンで黒インクがなくなると、青と赤で書き続ける私には決してできない。
或いは整理。読み終わった新聞をそのつどきちんと積み上げて行ったり、たたんだ洗濯物を奥から順番に並べるとか。使い終わった食器を乱雑に食器棚に放り込んだあげく、月一で派手に割ってしまうような私と、いったいどこが違うんだろう?
或いは頼まれごと。電子辞書の電池がなくなったから単三電池とってくれない?と言われて電池を渡すだけじゃなく交換までしたり、掃除機かけてと頼まれると、椅子やソファの座面や足の裏、フロアマットをひっぺがして裏までかけたりするとか。
貴重な時間を奪われないよう、最小限の時間と労力でやってのけることに情熱を傾けている私は、頼んだこと以上のことをしてくる人に、うれしいとか、優しいとか思うより、恐れに近いものを感じる。
もしかして時間の流れが自分とは違うんじゃないか?とか、彼らの目は、目の前の雑事をきらきらした仕事に見せる機能を持ってるんじゃないかとか、もしかして世界の秘密を知ってるんじゃないかとか。
世の中は億劫センサーが敏感な人が多い。私のように何をするのも面倒に感じる人だ。そういう人に頼み事をする時はセンサーに引っかからないように慎重に言葉を選ばなければならない。センサーの鈍い人に慣れてしまうと敏感な人への対応力が鈍ってしまう。
何より自分のセンサーがどんどん鈍くなってきそう。
センサーが鈍くなったら雑用が嫌だなーと思わなくなっちゃう。そうすると色んな事が目に入ってきちゃう。
例えば掃除機のノズルのブラシについたほこりに気がついちゃって、それをとるのが楽しくなって夢中でノズル掃除をしちゃうとか。そしていつの間にか、貴重な時間をそれらに費やすようになっちゃったらどうしよう?
私は時間をブログを書いたりするクリエイティブな活動に使いたいんだよ。
でもセンサーの鈍い人の方がずっと楽しそうに見えるのはなぜ?
雑用を嬉々として楽しんでやってるあの人たちは、おもちゃを独り占めしないでみんなと仲良く遊んでる子供みたい。
クリエイティブな私は、おもちゃを誰にも渡さないで横目でうらやましそうに見ているだけなのだ。
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